2図 古河公方足利氏系図
幕府の将軍たちが権力闘争に敗れて京都を去り各地を流浪したように、北関東の古河公方も戦乱によってしばしば古河を離れることになった。成氏のあとを継いだ政氏は、一六世紀の初頭、永正年間に子高基と対立して古河城を没落。その後古河公方となった高基も、政治路線をめぐって弟の小弓公方義明や子の晴氏との対立が表面化。骨肉の争いを繰り返した。晴氏の子義氏の代になると、古河公方はすでに関東の過半を制圧しつつあった北条氏の傀儡に近い存在となっていた。
このような古河公方家の内紛の根底には、このころ勃興しはじめていた各地の地域権力の存在があった。一五世紀後半の相次ぐ戦乱のなかで、宇都宮氏ら北関東の国人領主たちは、これまで独立的であった一族を配下におき、新たに台頭してきた村落の有力者(地侍)を自らの家臣としていった。これにより形成された国人領主の当主を中心とする集団を家中と呼ぶ。家中の成立はこのころの全国的な動きであったが、特に東国では洞中・屋裏とも称された。また、家中の成立と相前後して、国人領主たちは分散的であった領地を一円化し、特定の地域の領主として君臨するようになる。一五世紀後半の東国の内乱は、国人領主たちにとって、まさに生き残りをかけた激烈なサバイバルレースであった。
一六世紀に入り、各地の地域的な領主となった国人領主たちは、所領支配をめぐって隣接するほかの国人と衝突を繰り返す。また、本来ルーズな結合体であった家中内部でもその主導権をめぐり、深刻な対立が表面化する。国人領主が村落の有力者層までを家臣としている以上、村落内や村落同士の対立が即、家中や国人間の対立にまで直結したのである。このような国人相互の恒常的な対立が、古河公方権力を揺るがし、古河公方の実権を失わせていった。
一方、一六世紀も中ごろになると、各地に有力な領主たちが登場しはじめる。小田原の北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、などである。彼らは一般に戦国大名と呼ばれ、広大な領地、多くの家臣、そしてそれらを対象とする独自の法律(分国法)を有していた。しかしながら北関東では、彼らのような有力者は登場せず、平安時代以来の伝統をもつ宇都宮氏らの伝統的国人領主たちが、割拠し続けていた。けれども、一六世紀には彼らもその権力形態を大きく変化させ、家中や国人相互の対立をとおして、曲がりなりにも家中支配を確立しつつあった。そこでここでは、いわゆる戦国大名だけでなく、宇都宮氏らの国人領主を含め、この時期の領主たちを地域権力と総称する。一六世紀は、まさにこれらの地域権力が各地に登場した時代であった。