とはいえ、成綱の家中支配はいまだ不安定で、当初は一族の笠間氏や武茂氏ともしばしば対立している。成綱は古河公方成氏の後援をうけ、ようやくこのような危機を乗り切った。また、家中では家宰の芳賀氏が新当主成綱を補佐したが、芳賀氏は南北朝時代以降勢力を拡大し、宇都宮家中においても絶大な権勢を有していた。このため、永正九年(一五一二)には成綱と芳賀氏の当主高勝との対立が表面化し、高勝は成綱により討たれてしまう。こののち成綱は芳賀一派の反撃に直面し、宇都宮家中はしばらくの間混乱するものの、芳賀氏を従えることによって宇都宮氏当主の家中掌握は強化された。
成綱のあとを継いだ長男の忠綱は、永正一一年、宇都宮領に侵攻してきた佐竹・岩城氏を破るなど、順調に勢力を拡大していった。しかしながら家中には当主の権限強化を快く思わない勢力もあり、大永年間に入って、家中内の対立が表面化する。特に成綱により討たれた芳賀高勝の弟高経は反忠綱派の中心として、下総の結城政朝と結び、大永三年(一五二三)に忠綱を宇都宮城から追放する。こののちしばらくの間、内訌は続くが、結局忠綱の復位は実現せず、新たな当主には高経らによって成綱の三男興綱が擁立された。ただし、まだ若い興綱のもとで宇都宮氏の実権を握ったのは、やはり高経らの一派であり、やがて興綱も高経と対立して憤死する。
3図 芳賀氏の居城・真岡城跡(真岡市)