興綱に代わり.次の当主に擁立されたのは、成綱の二男で、彼は宇都宮大明神の神宮寺慈心院院主から還俗し、俊綱(のち尚綱と改名)と称した.彼のもとでも芳賀高経一派の権勢は続いたが、天文八年(一五三九)俊綱は当時台頭著しかった一族の壬生氏と結んでこれに反撃。宇都宮家中はふたたび深刻な内紛状態となった。この内訌で俊綱は高経を討つものの、高経と緊密な関係にあった塩谷氏や那須氏が俊綱に敵対し、こののちも両者との対立は続いた。また、その後俊綱は壬生氏とも対立し、両者の武力衝突へと発展した。集権化を図る俊綱に、一族や有力な家臣たちが反発したのであろう。天文一八年になると俊綱は、那須氏との長年の係争地喜連川に向けて出陣する。ところが、喜連川を眼前にする早乙女坂で那須高資率いる那須勢と合戦となり、俊綱はあえなく討ち死。宇都宮勢は、二〇〇余人の戦死者を出す大敗北を喫してしまう。このため、俊綱の嫡子伊勢寿丸(のちの広綱)は、家宰芳賀高定に供奉されて宇都宮城を脱し、高定の居城真岡に逃れた。
一方、宇都宮城には、当初芳賀高経の遺児高照が入城。これを塩谷氏・西方氏・上三川氏・壬生氏などの宇都宮氏一族が支援した。宇都宮家中は、真岡城に拠る俊綱の遺児伊勢寿丸と宇都宮城に拠る芳賀高照を中心に完全にふたつに分裂したのである。
家中の分裂後、「九ケ年に及び在々所々において様々の戦い申すに及ばず」と『今宮祭祀録』が記すように、宇都宮領の各地で両者の戦いが繰り広げられた。その際には、両勢力の境界領域に位置する高根沢一帯も激烈な戦場となっている。また、高根沢の村々が属する氏家郡の惣鎮守の今宮明神でも、神官である「袮宜太夫」が伊勢寿丸に従って真岡に移ったため、伊勢寿丸が宇都宮に帰城するまでの九年間、一切の神事が滞ることになった。
今宮明神の祭礼の中絶に象徴されるように、宇都宮氏の内訌が高根沢に暮らす人びとに与えた影響は深刻であった。
4図 早乙女坂古戦場跡