5図 喜連川城跡(喜連川町)
中世に関東と陸奥を結んだ基幹陸上交通路が、奥大道である。奥大道は、日本史上著名な源頼朝や義経、北畠顕家ばかりでなく、多くの人びと、たくさんの文物・産物が通った、重要交通路であった。すでに鎌倉時代には、奥大道沿いに多くの集落が成立し、奥大道を上下する人びとで賑わった。
下野国内の奥大道のルートは、南から小山・薬師寺・児山・宇都宮・氏家・喜連川・福原・黒羽・芦野を通って白河へと達し、近世の奥州街道とも重なる部分が多い。喜連川の場合は、南流する荒川と内川の合流点に位置し、まさに水陸あわせた交通の要衝であった。このため喜連川の領有をめぐって、紛争が起こることもしばしばであった。
喜連川が属する塩谷荘の現地支配にあたったのは宇都宮氏の一族塩谷氏だが、上級支配権は、鎌倉幕府の最有力者北条氏から室町幕府将軍足利氏へと伝えられ、結局足利氏の末裔古河公方の御料所となったらしい。享徳の乱では、塩谷周防守らが喜連川城に立て籠もり、下野における古河公方足利成氏方の重要拠点となった。戦国時代には、地理的な関係もあって、宇都宮氏と那須氏の係争地となり、宇都宮俊綱(尚綱)は天文一八年(一五四九)に喜連川への入口早乙女坂での合戦で戦死している。坂の途中には俊綱の供養塔と伝えられる五輪塔が今も残る。