このたび礎の地に向かい調義に及び候処、その方の動き比類なく候、向後においてもなおもってあい嗜み専要に候、
恐々謹言、
左衛門太夫
閏月廿七日 高定(花押影)
平野大膳亮殿
翌一一月二日には、伊勢寿丸からも平野大膳亮に、「石居」での軍功を賞する感状が出されているので(史料編Ⅰ・五七三~四頁)、「閏月」とは閏一〇月で、この年が閠一〇月のある弘治元年(一五五五)にあたることがわかる。すでに伊勢寿丸が真岡に移って七年目を迎え、この時期宇都宮城は芳賀高照に代わって壬生綱雄が占拠していた。両者の間では一進一退の攻防が続いていたが、真岡方の反撃によって宇都宮方は、強力な後ろ楯であった那須高資が謀殺されたほか、芳賀高照とその他の宇都宮氏一族との関係が悪化し、高照も真岡でやはり謀殺されている。そのような状況下で真岡方のかけ引きとして石末攻めは行われたのであった。
それでは「礎の地」とは、町内のどのあたりを指すのであろうか。のちの史料には、「石居の地に在城致し」との一節があるので(史料編Ⅰ・五七五~八頁)、この場合の「礎の地」もこれと同じ城郭を指すとみてよい。石末字笹原には、往時野沢若狭守の居館大館があったと伝えられるが、現状を見るかぎりまったくの平地であり、痕跡もとどめていない。要害の地でもない大館が、「礎の地」にあたる可能性は低い。たぶん、現在阿久津城と通称されている城郭こそ、史料にある「礎の地」であろう。阿久津城は氏家から続く丘陵がもっとも狭くなるくびれ部分に立地し、城の東西は丘陵の傾斜を防壁とし、南北は土塁と空堀で守る、自然地形を巧みに利用した城郭である。地名的には、丘陵の西部が中阿久津であるため、阿久津城と通称されることが多いか、東部は石末であり、丘陵自体はその境界に位置する。規模といい、立地条件といい、阿久津城こそ往時の石末城であろう。
「礎の地」は、戦国時代を通じて、那須氏らの侵攻に対し、宇都宮領の東を守る要地であった。弘治元年の段階では、那須氏や塩谷氏の勢力が「礎の地」あたりまで及んでおり、さらに南下して真岡を窺うような情勢にあったと考えられる。これに対する真岡方の反撃のひとつが、弘治元年の石末城攻めであろう。合戦の結末は定かでないものの、さきの平野大膳亮の場合は、この合戦で傷を被っており、相当の激戦だったことがうかがえる。
6図 石末城跡