7図 壬生氏の居城・鹿沼城跡(鹿沼市)
弘治三年(一五五七)一二月、伊勢寿丸はようやく宇都宮城への帰城を果たし、永禄年間には分裂していた宇都宮家中も再編された。このころ伊勢寿丸は元服し、広綱と名乗った。広綱の時代に宇都宮氏は、姻戚関係を結んだ常陸の佐竹氏を後ろ楯に下野随一の地域権力へと成長する。ただし、このころになると、すでに述べたように小田原の北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などが、それぞれ北関東へも勢力を拡大し、互いに激しい勢力争いを繰り返す。これに伴い、宇都宮氏をはじめとする北関東の地域権力は、どの勢力に属するかで厳しい選択を迫られた。
天正年間に入ると、北条氏の侵攻は苛烈さを増し、これに伴ってこれまで互いに反目することが多かった北関東の地域権力は、反北条氏を掲げて、佐竹氏を盟主に結束するようになる。たとえば、広綱の場合は次男朝勝を下総の結城晴朝の養子とし、結東を固めた。この北関東の領主層を中心とする反北条氏同盟は「東方之衆」と称され、自らを「味方中」と呼んだ。ただし、その結束は決して一枚岩ではなく、状況によりたびたび動揺を見せた。また、すでに北条氏と結んだ領主層もあり、下野では皆川氏や壬生氏が北条方として、活発に活動しつつあった。このような情勢下で広綱は病没し、まだ若い国綱が新当主となった。
当主国綱が直面した課題は数多いが、なかでも北条氏の攻勢は深刻で、これと結ぶ壬生氏らへの対応にも苦慮した。このため、国綱は天正一三年(一五八五)八月に本城を宇都宮の西北にある多気山に移し、北条氏の侵攻に備えた。一二月になると、北条氏の当主氏直は大軍を率いて下野に侵攻し、宇都宮近郊に着陣。早速、宇都宮大明神をはじめ、周辺の神社仏閣を放火し、気勢をあげた。宇都宮城には重臣の玉生氏が在城していたが、どうやら氏直は宇都宮氏と一気に雌雄を決する気はなかったらしく、間もなく陣を払い宇都宮を去っている。