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那須衆を撃退

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8図 大宮城跡(塩谷町)

 天正一三年(一五八五)一二月、北条氏の大軍が宇都宮近郊に在陣し、宇都宮氏がその対応に追われている最中に、那須資晴率いる那須衆が宇都宮領の高根沢一帯に侵攻してきた。一応、那須衆は宇都宮氏らと同盟関係にあったけれども、所領をめぐる両氏の対立は深刻で、すでに両氏の間では何度か武力衝突を起こしていた。特に今回は宇都宮氏の苦境を見計らったうえでの軍事攻勢であった。那須衆の侵攻に対し、高根沢周辺の岡本・野沢氏などの地侍たちが石末城に在城して那須衆を撃退し、事なきをえた。この軍功により、岡本・野沢氏らは国綱からそれぞれ甲斐守・新左衛門尉といった受領・官途を恩賞として与えられている(史料編Ⅰ・五七五~八頁)。
 しかしこれで宇都宮領の軍事的緊張が解消されたわけではなく、石末城の普請・修築は以後も続けられた。たぶん国綱のものと考えられる某書状写によると(史料編Ⅰ・五七九~八〇頁)、どうやら石末城は現在の高根沢町一帯を中心とする氏家郡下郷の拠点の城であったらしく、毎年下郷の村々に対し普請が命じられ、宇都宮氏が派遣した奉行がその監督に当たっていた。また、下郷衆と呼ばれる岡本氏ら下郷の地侍たちが石末城に在城し、有事に備えた。まさに石末城は宇都宮領の東を守る重要な拠点であったのである。
 一方、現塩谷町を中心とする氏家郡上郷でも、同様に軍事防衛拠点の整備が進められ、天正一五年二月には大宮城が再興された。大宮城には、金枝・上平・飯岡・粕谷・小宅・鈴木氏などからなる上郷衆が在城した。石末城の普請・大宮城の再興はともに、宇都宮領の防衛体制整備の一環であった。