中世に入るとそうした御師と檀那の関係は貴族たちのみならず新興の武士階級に広まり、特に東国の武士社会に広く普及することになった。こうして活発化した中世期の御師としては、熊野、伊勢、松尾、三島、富士、白山などが知られるが、特に全国にその活動が顕著なのが熊野と伊勢の御師たちであった。
両方とも東国の武家社会に入り込んだ点で共通し、御師たちは武家の一門を一括して自己の檀那とするようになった。ただし、熊野御師の場合、御師と檀那の間に先達が介在している点が伊勢の場合と異なっていた。つまり熊野の先達は御師の配下に属し檀那を御師の所に導いてくる役割を果たす者で、檀那の参詣の途上で精進・潔斎・奉幣・献饌などの導師をつとめた。それに対して伊勢の場合はそうした先達はなくて、御師自らが檀那の所に赴いて参詣を勧めたため師檀関係はより密接なものとなった。
伊勢神宮は元来天皇家の氏神であるため、天皇家以外の人々が幣をあげたり参拝することは禁じられていたが、鎌倉時代になるとこの制度がゆるみ、一般の貴族や武士が参詣するようになり、御師たちの活躍でさらには領内の農民たちをも檀那とするまでになった。伊勢の御師たちは、師檀関係を結んだ檀那である施主や願主の諸願成就の祈禱に際し、年ごとに祈禱の験である祓麻(大麻)や、熨斗鮑・伊勢暦・鰹節・扇・帯・茶・白粉など多彩な伊勢みやげを持って諸国を巡歴して檀那に提供し、貨幣や米などを受け取った。また檀那の参宮の際には御師の自邸に宿泊させ、神楽殿において太々神楽を奏し、神宮参詣や志摩の遊覧などに便宜をはかった。このような活動によっていわば行商人的な性格をも持った御師たちは、全国にその活動を伸ばし、その数も飛躍的に増加し、中世末期の文禄年間(一五九二~九六)には外宮だけで一四五家に達したという。
ところで下野の場合をみると、一六世紀に入ると諸豪族たちはこぞって内宮の神官佐八家を御師として伊勢神宮の檀那になっている。佐八文書から知られる下野の檀那は、宇都宮家、芳賀家、壬生家、鹿沼家、足利長尾家、南摩、祖母井、松野、益子、皆川、水谷、那須、大田原、大関、福原、千本、塩谷、岡本、小山、結城などの主だった下野の戦国領主や重臣たちのほか、日光山座禅院といった独自の仏教寺院までも含んでいる。また、『下野国御檀那帳』(国文学資料館蔵)によって、下野国内全域を檀那場として精力的に活動していた御師佐八家と、檀那として登録されていた下野の人々の姿をうかがうことができる。
10図 佐八文書を所蔵している神宮文庫の門=旧御師の家の門(三重県伊勢市)