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檀那になった武士

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 下野においてこのように伊勢信仰が浸透したのは御師佐八家の活動の成果であったが、実はそれに先行して中世前期から室町期にかけては熊野信仰が普及していた。前述のように熊野信仰の場合、その普及に活躍したのは御師と先達であり、在地で檀那と接触をしたのは先達たちであった。先達の多くは熊野山修行をした修験者(山伏)たちで、熊野御師から先達の称号を与えられ、各地域の檀那場(霞)に分散して活動して檀那を獲得し、熊野参詣の道案内や御師から預かった檀那への巻数(御師が願主の依頼に応じて祈禱した度数などを記して願主に送った文書で、木の枝などにつけて送る慣例があった)や守札・牛王宝印(七五羽のガラスを散りばめて文字として図案化した刷り物の用紙で、誓紙や起請文を書くのに用いた)などの札を配ったりした。
 ところで、檀那は御師にとって信者であるのみならず、財物を与えてくれるものでもあり、一種の財産であった。そうしたことから、御師の間で檀那の相続・譲渡・売買が行われるようになった。熊野御師文書の一つである「米良文書」には下野国内におけるそうした熊野の檀那職の売券が数多く残っている。こうした檀那の売買が頻発する中で零細な御師から強大な御師への檀那の集中化が進み、檀那が商品化することにもなった。しかも、熊野の御師と檀那の仲介者であった先達がしだいに地域社会に定住する傾向になり、御師による檀那の掌握がしだいに困難化するようになった。そうした傾向もあって熊野信仰は戦国期には衰退の一歩をたどるようになり、代わって伊勢信仰が急速に発展したのであった。その裏には熊野御師とは違って積極的に直接檀那廻りの廻国を行っていた佐八家のような伊勢御師の活動の力があったことは明らかであろう。
 さて、佐八文書の中で認められる下野の檀那に関する最も古い時期の文書は永正一一年(一五一四)の左記の文書である。
 
  下野国拝領の内、参詣の輩、一家々風、其外地下人等、何れも其方の在所を定宿と致すべきなり、仍て状す、件の如し
    永正十一年甲戌六月十日 藤原忠綱(花押)
        伊勢内宮
               佐八美濃守殿
 
 これによれば、宇都宮氏の当主である宇都宮忠綱が、伊勢神宮の御師である佐八美濃守に対して、下野国内の宇都宮家の所領内の者は、宇都宮の一族家臣はもちろん一般の農民・商工業者などすべての人が、伊勢参宮の時には佐八家を定宿とする、すなわち檀那となることを約束している。
 このように一六世紀初頭のころから宇都宮家が伊勢御師佐八家の檀那になったのをはじめ、下野国内の主だった領主たちもこぞって檀那になったのであるが、彼らはどのような信仰のやりとりを行ったのであろうか。最も一般的なのは、檀那が毎年恒例の祈禱、すなわち武運長久・子孫繁昌・当城繁栄・家内繁昌・寿命長遠・息災延命などを依頼し、その祈禱の証として御師佐八家から御祓大麻(神札)・御幣などが配られるほか、種々のお土産類が添えられるのに対し、檀那側は初尾(最花とも書く)と称する金銭を捧げたのであった。ちなみに佐八文書に見える範囲で佐八家が下野武将たちに配ったお土産を列挙してみると、鳥子紙・油煙(墨)・帯・長鮑・杉原紙・櫛・ものさし・のり・筆・熨斗・熊野紙・白粉・巡笠・白鳥・雁など多彩で興味深い。
 また、そうした毎年の恒例の祈願の他に、自ら願文を捧げて具体的な願をかけることもあった。例えば慶長三年(一五九八)九月、宇都宮国綱は伊勢神宮に願文を捧げている。彼は前年に豊臣秀吉によって改易(所領を没収)され失意にあったが、おりしも第二回目の朝鮮出兵にあたり、出陣して武功を立てて秀吉の怒りを解こうとしたのであったが、秀吉が死去したためあてが外れてしまい、その直後にこの願文で本領安堵、還住の夢を託して願をかけている。また、天正五年(一五七七)八月の小山伊勢千代丸(政種)の願文は、小山氏の本拠地であった祇園城が北条氏照によって奪われた直後、祇園城へ帰城することを願って佐八掃部守に祈禱を依頼している。
 このように戦国期の下野にあっては武運長久や息災延命、本領安堵といった武家の祈願を通して伊勢信仰が浸透していったのであった。特に、武家の中には伊勢神宮に神領を寄進するものもあり、宇都宮家が栗島郷を伊勢神宮に寄進していることは注目すべきである。

11図 宇都宮忠綱の書状(佐八文書 三重県伊勢市神宮文庫蔵)