氏家郡の内栗島郷の事、忠綱の寄進の旨に任せて、向後においても相違あるべからず候、なおもって精誠を抽じられ候へば、快悦たるべく候、仍て状す、くだんのごとし、
天文四乙未十一月三日 藤原俊綱
内宮 佐八与次殿 (史料編Ⅰ・五三三頁)
右にあげた文書は宇都宮俊綱が伊勢神宮内宮の御師佐八与次に宛てた寄進状である。先々代の宇都宮家の当主であった忠綱(俊綱の兄)がすでに寄進していたことにならって、自らも氏家郡内の栗島郷を寄進することを明確に伝えた内容である。さらに六日後の一一月九日付けで宇都宮氏の重臣であった芳賀高経からも寄進の旨の副状が出されている(史料編Ⅰ・五三四頁)。
宇都宮氏は代々こうした寄進状を発していたと考えられるが必ずしも全て伝わっているわけではなく、忠綱の寄進状も残っていない。しかし、宇都宮氏の寄進は忠綱以前にさかのぼれるようである。年未詳の六月一一日付で忠綱の時代に伊勢神宮とのやりとりの実務を行っていた代官である永山忠好の副状(佐八文書)には、忠綱の先祖である等綱の「判形(花押を記した文書)」があってそれを写していたことが記されているので、等綱の代にすでに寄進状が出されていたと思われるのである。つまり、宇都宮等綱は永享七年(一四三五)ごろ家督を継ぎ、寛正元年(一四六〇)に没しているから一五世紀半ばごろにすでに宇都宮氏からの寄進が行われていたと考えられる。
そして等綱以後、明綱―正綱―成綱の代には必ずしも明確ではないが関係は保っていたようで、戦国期に入り忠綱の代に改めて寄進し、以後興綱―尚綱(はじめ俊綱)―広綱―国綱と継続し、慶長二年(一五九七)の改易に至るまで栗島郷は宇都宮氏が寄進している伊勢神宮領として続いたのであった。
このように、栗島郷は宇都宮氏から佐八氏に寄進されることで伊勢神宮領となったわけで、先に述べたように佐八氏の御師としての活動の結果多くの下野国内の有力領主層が檀那として定着するようになったのは、早くから宇都宮氏からの寄進があった栗島郷が佐八氏の活動の拠点として確保されていたことに起因するとみられよう。
14図 宇都宮国綱の書状(佐八文書 三重県伊勢市神宮文庫蔵)