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栗島郷の年貢

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 佐八氏に寄進することで伊勢神宮領となった栗島郷を通して、宇都宮氏は具体的にはどのような伊勢神宮との関係を結ぶことになったのであろうか。以下見ていくことにする。
 まず、伊勢神宮領として寄進した栗島郷から毎年「土貢」(年貢)が納められていた。大永六年(一五二六)の佐八定栄書状案(史料編Ⅰ・五二六頁)には前年に八貫文を納めたとあり、また永正一七年(一五二〇)と見られる一〇月二〇日付の永山忠好書状(同上・五二〇頁)では毎年七貫文、年未詳一一月二八日付の宇都宮俊綱安堵状(同上・五四〇頁)では毎年千疋(一〇貫文)というように、およそ七貫から一〇貫文程度の年貢を納めていたようである。
 これに対し、神宮側すなわち佐八氏は種々の祈禱を行い、その報告を兼ねて、毎年千度の御祓(千度の御祓を行ったしるしの神札)、巻数(願主の依頼に応じて読誦した経文の題名や度数を記した文書)、油煙(油煙で作った墨)、料紙(鳥の子紙や杉原紙などの和紙)、帯、御幣(神前に供える幣束)などの土産を宇都宮氏のもとへ届けている。そしてそのつど、その返礼として宇都宮氏側から「御初尾」(神仏に捧げる米穀などであるが、実際は金銭で納めた。)一〇〇疋(一貫文)から二〇〇疋(二貫文)程度を納めるのが恒例であった。