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二重支配の神領

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15図 芳賀孝高の書状(佐八文書 三重県伊勢市神宮文庫蔵)

 こうした伊勢神宮とのやりとりにあたって、栗島郷にはその実務を担当する代官が配されていた。宇都宮忠綱のころには永山忠好という人物がその任にあったようで、先に紹介したように彼の書状から伊勢神宮佐八氏とのやりとりの様子がうかがい知れる。永山忠好は宇都宮忠綱の家臣で、おそらく忠綱の忠の一字をもらって忠好と名乗ったと思われ、修理亮の官途を称し、ある時期から道損という法名を名乗っている。
 また、彼の書状を見ると栗島郷に在する永山忠好と直接交渉する佐八氏側の代官として宗次郎という人物が栗島に派遣されている。つまり、宗次郎は御師佐八氏から預かった伊勢神宮からの種々のお土産を栗島郷まで持参し、永山忠好に引き渡すかわりに、宇都宮氏からの年貢や初尾などを永山忠好から預かって再び伊勢の佐八氏のもとに届ける役割を担ったのであった。
 その後宇都宮広綱のころには宇都宮家臣の岡本美濃守(高昌)、岡本(可月斎)宗慶などの代官の名が見られる。また、宇都宮氏内部の事情もあって重臣であった芳賀氏の管理下に置かれることもあったと思われ、芳賀高武が家臣の大塚忠範に代官を勤めさせたこともあった。
 さらに宇都宮国綱の代には、使者として塙大膳亮(範実)などの人物が認められる。また、『下野国御檀那帳』には「栗島ノ御代官」として平石善八の名も見える(史料編Ⅰ・七四〇頁)。
 ところで、栗島郷は先に紹介した寄進状に記してあるように氏家郡内の郷村である。したがって『今宮祭祀録』に見られるように、伊勢神宮領である栗島郷も今宮明神の祭礼にあたっての神役(頭役・頭人の勤役)は例外なく課せられていたのであった。応永一八年(一四一一)、明応二年(一四九三)、永正一七年(一五二〇)、天文三年(一五三四)、永禄三年(一五六〇)、天正九年(一五八一)にそれぞれ今宮明神の頭役を担当していることが『今宮祭祀録』で確認できる。
 粟島郷の人々にとっては、氏家郡内で唯一伊勢神領という特殊な村であることから、伊勢神宮への年貢と今宮明神の神役の負担という二重の負担に悩まされることにもなったのであった。さらには、時として宇都宮明神の神役をも負担することもあったようで、応永一八年には、粟島の代官の小次郎という人物が「宮の下頭」すなわち宇都宮の下頭役の料足として一〇〇貫文を納めたうえに今宮明神の頭人も勤めている。
 その後、今宮明神の頭役を勤めなければならない年が来るたびにその負担は悩みの種で、天文三年に頭人を勤めた桑窪修理亮は、式の肴六膳、らいし八本のみを納め、粟島郷が伊勢神領であるとして軽減を申し出ている(『今宮祭祀録』)。また、永正一七年(一五二〇)には、代官の永山忠好が佐八美濃守に出した書状で「栗島土貢、当年は鎮守の神役相当たり候間、百姓等詫言余儀なしといえども、毎年のごとく七貫文分を取り納め候」とあるように、粟島郷の百姓が鎮守(今宮明神)の神役を勤めることを理由に年貢軽減を願い出たのであるが、結局免除されることなく例年どおりの七貫文を取られている。その結果『今宮祭祀録』の同年の項には「長(永)山の代官小窪雅楽助、御供参らず候」と記録されており、この年、永山の代理人の小窪雅楽助が頭人としての御供を出さなかったようである。
 そして天正九年、今宮明神の頭人を勤めた矢口但馬守は、一〇貫文の頭役銭を半分の五貫文にしたうえに、らいし(酒器)を半分、酒と簗(簗をつくってとった魚を御供にすること)を免除してもらい水ばかりで勤めるという簡略な祭祀にしている。
 このように、栗島郷の人びとは、鎮守今宮明神への神役の負担を理由に伊勢への年貢の減免を要求する一方で、伊勢神領を理由に今宮明神への神役の軽減を主張したことが見てとれる。

16図 永山忠好の署判(佐八文書 三重県伊勢市神宮文庫蔵)