20図 阿久津城鳥瞰図(北東方向より) 作図 関口和也
阿久津城は貞和四年(一三四八)に宇都宮氏の家臣野沢若狭守により築かれたと伝わるが、史実かどうかは明らかではない。この一帯は「たつかいどう」・鎌倉街道などの古道が通過する交通上の要地であった。また、戦国時代には宇都宮氏と那須氏の両勢力の接点であったため、たびたび戦場となったことが確認できる。
城は、南北にのびる台地の、ややくびれた部分を利用して築かれており、北と南は地続きで、東西は崖となっている。そのため中心部に主郭を置き、その南側と北側に台地を横断する堀を設けて遮断線とし、南北両方向からの敵に備えた構造となっている。こういった築き方はあまり例がない。現在、大規模な堀の一部や土塁の一部が残っているものの、東北本線や宅地造成などのために遺構の破壊・改変がはなはだしい。現状からかつての様子を想像することは困難であるが、国立国会図書館所蔵『日本城郭史資料』所収の図などによりある程度の復元は可能である。それを見ると、主郭に至るまでに、横矢を多用した技巧的かつ厳重なルート設定がなされたことがうかがえる。全体的な構成をみると、領民支配や政治拠点というよりは、交通の要地を押さえ、戦闘の際に軍事拠点とすることを目的として築かれたと推定できる。おそらく現存する遺構は、天正一三年(一五八五)頃に後北条氏の侵攻に連動した那須氏の侵攻に備えて宇都宮氏が改修したものと考えられる。
[関連史資料] 阿久津城跡現況平面図 (目録)