21図 桑窪城鳥瞰図(南西方向より) 作図 関口和也
桑窪修理助秀春が築いたとも、谷口筑前守が築いたともいう。谷口氏は在地の土豪であり、戦国時代末には宇都宮氏に属していた。城は丘陵のほぼ先端部に位置し、東西はいずれも崖で北側のみが尾根続きとなっている。その尾根続きを堀切で遮断し、その南側に四方を堀に囲まれた主郭を設定している。その南には台地があり、麓に城主の子孫と伝わる谷口家がある。
虎口は南側にあり、両方向から横矢がかけられる構造(合横矢)となっている。また北側にも虎口があったらしく、こちらは櫓台から攻撃できる位置にある。北側の虎口は現状から判断する限り木橋をかけていたようで、有事には橋を落として虎口を封鎖したと考えられる。そうすると、敵は堀の対岸の狭く屈曲したルートを使って南側の虎口に向かわざるをえず、その間城内から攻撃できるよう工夫されている。
この城は、規模や城主谷口家に関する記録などから基本的には在地支配のための城と考えられるが、合横矢の虎口、折りを多用した堀、ルート設定など小さいながらも技巧的な点も多く、戦国時代に那須氏に対する最前線として戦争時の拠点としても活用できるよう設計されたのであろう。
[関連史資料] 桑窪城遺跡 (目録)