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謎の城・高根沢城

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 権現山城ともいい、高根沢兼吉が築いたとされる。兼吉は観応二年(一三五一)に討死しているが、この時期、本当に城があったかどうかは疑問である。戦国時代末期には宇都宮氏の支城として高根沢氏が守っていたと考えられ、現在残る遺構はこのころの姿と考えられる。なお高根沢氏は宇都宮氏の一族とされるが、詳細は明らかではない。
 城は東側に川の流れる台地上にあり、川に面して崖となっている。ただし、城の遺構は昭和三〇年代の開墾と昭和五三年のテストコース建設により。ほとんど破壊されている。そこで、『地誌編輯材料取調書』所収の図や『栃木県高根沢町上の原遺跡』に掲載された発掘調査前の地図などにより旧状を推定復元しつつ、城の構造を検討してみたい。
 北端の堀は、いわゆる「折り」となっており、横矢のかかる虎口が存在した可能性がある。内側には土塁を伴っていたらしく、一部が塚状に残り熊野権現が祭られている。堀はさらに南に向かって長く延びる。発掘調査によって南北に延びる幅約五・七メートル、深さ約二・五メートルの堀が検出されており、これにあたると考えられる。堀はさらに南に延び、やがて東に向きを変える。これより南側の芳賀町との境の道路も堀跡といわれている。さらに芳賀町域にも堀跡らしき道が確認できることから、城域はさらに南に延びる可能性が高い。
 さて、このように細長く巨大な曲輪をつなげた城というのはあまり例がなく、普通の領主の居城とは考えにくい。仮に政治・支配等の拠点としての機能を考えるなら、高根沢氏の位置付けが不明とはいうものの、基本的にこの一部で十分と考えられる。その場合、麓に五輪塔群が存在する空間が注目できる。それではこの城はどのような機能を果たしていたのだろうか。破壊により断定はできないものの、北端の折りを除いてそれほど技巧が凝らされていたとも思えない。そうなると、巨大かつ単純な構造の曲輪から連想されるのは、一種の駐屯地ということである。しかも戦闘に際しての本陣的な場所ではなく、階層的にはあまり高くない軍勢の駐屯地であるとか、物資の集積地などと考えられる。『地誌編輯材料取調書』によれば、東側台地下の字宿に「御城内」・「南外城」・「東外城」などの小字があり、焼米の出土もあったという。台地上のみならず、低地部分も視野にいれて、今後追及を続けていく必要があろう。現状では、高根沢氏の居城と単純に決め付けて解釈してはいけないのではないか、という点のみ確認しておきたい。
 なお、芳賀町の大字下高根沢地内には同じく高根沢氏の城と伝わる下高根沢城があった。『那須記』には「下高根沢城主 高根沢平八」とある。「殿山」という地名があり、堀跡も残っていたというが、現在では跡形もない。

22図 高根沢城図

調査日 平成7年1月28日 作図 関口和也
※堀の推定復元については、『地誌編輯材料取調書』を参考とした。