29図 応仁の乱勃発の地(京都市上京区上御霊神社)
足利尊氏の創設以来、京を中心として諸国を治めてきた室町幕府も、室町末期に将軍家の跡継ぎ問題等に有力守護大名の勢力争いがからみあい京を中心として一一年ほど続いた応仁の乱(応仁元年・一四六七)により、その権威は急速に失墜した。京での戦乱が治まった後も、地方では荘園制の崩壊、在地武士の自立が進み、守護大名等の旧勢力に代わり新しい戦国大名が各地に出現した。各地に出現した戦国大名の中で、関東地方に大きな影響を与えた勢力の一つが小田原の北条氏(鎌倉幕府執権の北条氏と区別するため俗に後北条氏という)であった。
後北条氏は初代長氏(早雲)が一五世紀末、伊豆の韮山を拠点に勢力を拡大し、その後小田原城を中心に以後五代にわたり東海・関東地方に一大勢力を築きあげた。また、三代氏康の時南関東を制圧し、領国経営の基盤を整え、天正期(一五七三~九二)には、幾度となく下野等、北関東に進出を繰り返したため、宇都宮氏等地方領主層はその対応に苦慮した(本章第一節三参照)。他方、各地の戦国大名の中で尾張を根拠地とした織田信長は永禄三年(一五六〇)尾張桶狭間の戦いで今川義元を敗り、その後約二〇年にわたり「天下布武(信長の政治思想で、印章として使用された)」の名の下、各地の反信長勢を武力制圧していった。しかしながら、信長は天正一〇年(一五八二)「本能寺の変」により自害し、天下統一の事業は家臣の羽柴秀吉(後の豊臣)に受け継がれた。
秀吉は四国・九州を配下に治めた後、小田原にあり頑強に抵抗を続けていた後北条氏を屈服させるべく、全国に書状を出し動員をかけ、天正一八年四月(一五九〇)大軍により小田原城を包囲した。この結果、同年七月には小田原城は陥落し、城主の北条氏直(後北条氏第五代)は高野山に出家した。ここに、秀吉に武力対決を臨んだ最後の戦国大名後北条氏が滅び、その後東北の伊達氏も恭順を示したことにより、秀吉の天下統一が完成した。