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豊臣氏下の宇都宮氏

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30図 多気山城遠景(宇都宮市田下町)

 後北条氏がたびたび北関東への進出を繰り返していた天正期、宇都宮氏は第二二代国綱の時代であった。国綱は後北条氏の進攻に対し、伯父である常陸の佐竹氏、弟が養子として入っている下総の結城氏との同盟関係を軸に越後の上杉氏・甲斐の武田氏、さらに秀吉との連携を深め対抗した。しかしながら、後北条氏の下野侵略は激しく国綱は、南方から多功・上三川(上三川町)に進攻する北条勢、東方から高根沢の石末城(阿久津城)に進攻する那須勢、また西方・北方の鹿沼・日光山領からの壬生勢の圧力に抗するため、一時期防備の薄い宇都宮城から堅固な山城である多気城(宇都宮市田下町等)に本城を移すほどであった。
 関東進出を幾度となく繰り返した後北条氏も天正一八年五代氏直の時、秀吉の小田原城攻めにあい滅亡するが、この小田原城攻めに際し、五月、国綱は佐竹氏とともに小田原にいる秀吉の許を訪れている。この時、秀吉を訪れ恭順の意志を示したことにより、後北条氏滅亡後も国綱は秀吉から所領を安堵されている。こうして宇都宮氏は激動の戦国の時代をかろうじて乗りきったが、このことは国綱がいやおうなく秀吉の支配の体制の中に組み込まれることでもあった。
 秀吉は後北条氏滅亡後の同年七月、奥州の伊達氏を服属させ、天下統一を揺るぎないものとしていった。一方国綱は、同月下旬に秀吉より人質を差し出すよう命じられて、また八月には宇都宮領の支配に関する規定を与えられている。翌天正一九年(一五九一)には、秀吉は検地・刀狩等の実施に反対する奥州での一揆一掃のため徳川家康・羽柴秀次を将とする軍勢を差し向けた。この時国綱も動員され相馬方面から奥州へ入る等、秀吉軍下の一部将として行動している。また、この後文禄三年(一五九四)には京都伏見城の普請役を務め、さらに秀吉から羽柴の苗字を名のることを許されている。これらのことから、宇都宮氏が名実ともに豊臣氏の支配体制下に組み込まれたことがわかる。これは同時に、天正期、那須氏の攻撃を受けながら耐え抜いた高根沢地域も、当然宇都宮氏領域として高根沢氏等の地域領主に安堵され、秀吉の体制下に入ったことを意味する。

31図 名護屋城跡(佐賀県鎮西町)