天下統一の偉業を成し遂げた秀吉は次に海外進出を企て、朝鮮に対し日本への朝貢と明への先導を要求した。しかし、朝鮮はこの要求を拒絶したため、秀吉は文禄元年(一五九二)朝鮮への出兵を開始した(文禄の役)。秀吉は全国の大名に軍事費用、兵員を割り当て、新たに肥前(佐賀県)名護屋に城を築きそこを基地として大軍をもって朝鮮侵略を行った。宇都宮国綱もまた秀吉の命を受け、同年弟の芳賀高武、家臣の今泉氏・籠谷氏等と三〇〇人の兵を率い渡海している。渡海した後の国綱の詳細は不明であるが、文禄二年三月十日付けの「豊臣秀吉朱印状(浅野家文書)」には、釜山浦に普請の衆として「三百人 増田右衛門尉一手 宇都宮弥三郎」の記載があることからして、その頃増田長盛の配下で釜山において城の普請にあたっていたことがわかる。その後国綱は、同年九月下旬までには京都に、また一〇月には宇都宮に戻って来ている。これは四月に朝鮮在陣の小西行長と明の特使との間で和議が取り交わされ休戦が成立したこと、六月には秀吉が明に和議七カ条を示したことと関連しての行動と考えられる。朝鮮出兵に際し国綱は、領内に物成(年貢)の三分の一を納めるように指示しており、領内の人々は徴税に苦しんだろうことが想像される。