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大和田重清の日記

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32図 「大和田重清日記」冒頭部分(東京大学史料編纂所蔵)

 この文禄の役に秀吉からの動員命令に従った大名の一人に常陸の佐竹氏がいる。佐竹氏は当時宇都宮氏と親族関係にあり、秀吉の小田原城攻めに際してはいち早く宇都宮氏を伴い秀吉に謁見し、後北条氏滅亡後は領地を安堵された北関東の有力領主であり、その家臣の一人が大和田重清である。
 大和田重清は、佐竹氏が秀吉から朝鮮出兵を命じられ二月に水戸を立ち、四月に肥前名護屋に到着し在陣した折、また、その後水戸へ戻ってからも詳細な日記(『大和田重清日記』史料編Ⅰ・六三八頁)を書き綴っている。この日記は、重清が在陣した文禄二年(一五九三)の四月一八日から水戸帰国後の一二月二九日までを記載したものである。同日記原本には、文禄二年九州名護屋でこの日記が記されたことが明記してある。また、冒頭部分には「第二」とあること、日記の書き出しが四月一八日と途中からであることを考えると元来は二冊あったものと思われる。重清は当時佐竹義宣の家臣として、東茨城郡内に二〇〇石、久慈郡内に二一四石余を給されている。また佐竹氏の秋田移封後は御供家士の一人として秋田へ移り、元和五年(一六一九)一月に没している。日記は時期的に①名護屋在陣の四月から八月までの部分、②名護屋出立後(八月一八日)の道中部分、③水戸帰国後の九月以後の部分、からなっている。内容的には、①秀吉以下の諸将や下野武士との交流を含めた陣中生活の様子や渡海の準備、②道中での諸費用など当時の交通、物価事情、③水戸城下の様子や宇都宮氏等諸氏との交流、また当時の衣食住の様子が克明に記載されている。また、年貢等に関連し「宝積寺」の地名も記載されており、一人の中世武士の目を通した当時の人々の暮らしの様子や、宇都宮氏と佐竹氏との交流の様子もうかがえる中世の貴重な史料である。