それでは在陣中の部分について内容的にやや詳しく見てみよう。日記中に何回となく「宮」あるいは「宮陣」ということばが出てくる。これは、佐竹氏同様朝鮮渡海のため名護屋に陣を敷いていた宇都宮国綱のことである。宇都宮の陣まで「かち(徒)にて」とあることから、また重清が「二ノ丸しばい(芝居)の跡さうじ(掃除)」の帰りに寄り「もち(餅)御茶」を振る舞われていること等さしたる用事もないのに行き来している場面が多く見られることからして、両者が比較的近くにあったことや親密な間柄であったことがうかがえる。また、「高麗人之うた聞」との表現から捕虜であろうか、高麗の人々が名護屋にいたこと。「(高麗より)鉄砲衆帰来」、「名護屋城御普請」、「(朝鮮渡海のための)大船御見物」、「大明国御無事アリトノ御注進状参」等から朝鮮から帰る者、また朝鮮へ新たに行くための準備が急ぎ行われている様子がうかがえる。名護屋は朝鮮渡海のための前線基地であるが、戦場はあくまで朝鮮半島であるため補給基地としての色合いが濃いものであった。そのため、多くの将兵を養う必要から全国から物資が集まったこと、半島の最前線のような緊迫感が比較的薄かったことなどから長期在陣の気分転換のためか、秀吉や諸大名主催の能や酒宴、連歌や蹴鞠の会がたびたび催されている。また個人的にも飲食の機会は多かったようであり、前述した「もち御茶」の他「酒アリ」「大酒あり」「汁ふるまい(振る舞い)」「ゆ付振舞」等の記述が多々見られる。この他、例えば切麦、鴈と竹の子の汁、鯛のなます、椎茸等の在陣中に食した物が記され、「新茶」「茄子初テ食」「ゆかた(浴衣)初着ル」「土用入付にんにく三粒」等の表現からは季節感とともに当時の人々の食生活がうかがえる。自然に対する描写も豊かであり、雨の表現ひとつにおいても「村雨」「雨そゝとふる」「扨雨(細かな雨か)」「夜を透シテ大雨ふる」等現代には失われてしまった表現が見られ興味深い。