ビューア該当ページ

宝積寺と佐竹氏

484 ~ 484 / 899ページ

33図 宝積寺地内の景観

 大和田重清が水戸へ帰国後の日記には、一〇カ所に「宝積寺(十月二十六日・十一月二十八日)」「宝積(十月二十七日・同二十九日・同三十日・十一月二日・同四日・十二月二十三日・同二十四日)」「宝尺(十一月二十五日)」の名が見え、いずれも町内の宝積寺のことと思われる。
 内容は宇都宮へ着いた佐竹の一行へ宝積寺の百姓四人が樽(酒樽)肴を、また宝積の孫衛門や弥五郎なる人物が鳥一羽持参したことが日を違えて記載してある。また、やはり宝積の甚五郎なる人物の官途(公職に就くこと)が成ったこと、孫衛門が宝積の年貢として五貫文持参したことや、辰の年の年貢が完納したこと等である。記述的には断片的な内容ではあるが、当時佐竹氏と宇都宮氏とが親密な関係にあり両者が互いに行き来していたこと、元来、宇都宮氏の配下にあった高根沢地内からも、佐竹氏側へ年貢等金品が渡されていたことがわかる。これらから、この時期、宇都宮国綱がいかに佐竹氏との関係を強化していたか、また高根沢氏等、高根沢地内の領主層が宇都宮・佐竹両氏に配慮していただろうことがうかがえる。