豊臣秀吉は、天正一八年(一五九〇)小田原の北条氏を滅ぼし全国統一を成し遂げたが、それ以前から領内において検地や刀狩りを実施し、着々と自己の基盤を強化していた。検地は天正一〇年の畿内山城地方をはじめとして、全国的にほぼ同一基準の下で一国ごとに実施されており、この秀吉の行った検地を他の戦国大名や江戸時代に行われたものと区別し「太閤検地」とよんでいる。太閤検地では、①今まで不統一であった枡の容量と面積単位を統一し(六尺三寸(約一九一センチ)四方を一歩)、②田畑を上・中・下・下々の四段階に分け土地の標準生産高(石高)を算定した。また③検地帳を作成し、石高と耕作者(年貢負担者)を明記し一地一作人を原則としたことにより、農民は耕作権を保証されたが同時に年貢の義務を負うこととなった。この結果、農民の自立が促され古代以来の荘園制は全く崩壊し、石高に基づき領主が農民を直接支配し、直接年貢を徴収する体制ができ、近世封建社会の基礎が築かれることになった。
下野における太閤検地の実施は明確ではないが、寛永一三年(一六三六)作成の「家中分限帳」に天正一八年の検地帳が存在しただろうことや、天正一九年の「足利荘八幡宮検地帳」の存在を考えれば、小田原城攻めの後あたりに行われたであろうと考えられる。下野の検地は豊臣家五奉行の一人浅野長政が総奉行として行われたが、文禄二年(一五九三)の都賀郡上石川村検地帳、また高根沢町大字大谷・阿久津哲大家の文禄四年(一五九五)大谷村検地帳(史料編Ⅱ・一三一頁)には、浅野長政の家臣と並び宇都宮国綱・芳賀高武(国綱の弟)の家臣達の名が見える(上石川村検地帳では宇都宮国綱を宇都宮侍従と記載している。国綱が侍従となったのは文禄四年であること(『続群書類従補遺三』)からすると、同検地帳も文禄四年の可能性が高い)。いずれにしろ、この時期、宇都宮国綱は豊臣政権下の一大名として、浅野氏の指導の下家臣を領内各地に派遣し検地に当たったものと思われる。