34図 現在の文挾集落の旧県道付近
35図 古河公方・喜連川公方系統図
太閤検地は秀吉の強い意志をもって断行された。それは、秀吉から家臣の浅野長政に出された検地断行を命じた文書に、反対する城主は一人も残さず「なてきり(撫で切り)」にし、百姓以下は一郷も二郷も「なてきり」にし、その結果.村が「亡所」(誰も居なくなる)になっても良いとしている。秀吉の検地にかける並々ならぬ決意と共に、予想されるであろう多くの抵抗を示すことばである。大閤検地は一国ごとに行われ、天正一〇年(一五八二)から秀吉の亡くなった慶長三年(一五九八)まで行われたが、下野の検地が行われた文禄期に出された一通の文書がある。
「ふばさみ(文挾)村四十石余りの事、岡本讃岐と出入り(争い)御座候条、糺明を遂げ候処に(追及し明らかにしたところ)、国朝御領分に候間、異儀なく御知行(異論なく領地とする)成さるべき旨、御披露あるべく候、恐々謹言」(「喜連川文書」史料編Ⅰ・五八九頁)とあり、五月三日の日付がある。この文書は豊臣家五奉行の一人増田長盛から喜連川国朝に充てた書状である。喜連川国朝は鎌倉公方足利氏の末裔であり、豊臣秀吉が古河公方足利義氏の跡を継がせ天正一八年喜連川に三、五〇〇石を与えたのが始まりである(以後、子孫は喜連川氏を称したため、喜連川公方とも呼ばれた。文禄二年没)。岡本讃岐は宇都宮氏の一族塩谷氏の重臣であり、この時期岡本氏と喜連川氏が高根沢地内の文挾村四〇石余りをめぐり、争っていたことがわかる。訴えに対し裁定の結果、相論の土地は岡本氏ではなく国朝の領分であることが明らかになったことが増田長盛の花押入りで記されている。文禄期は全国的に検地が行われている時期であり、土地の帰属については領主層は過敏になっていただろう。また、名家足利氏の末裔といえ、秀吉の命により喜連川に入って来た国朝に対し地侍たちの反感があったことは予想される。特に、高根沢地域は中世期を通して宇都宮氏の勢力下に在り、新しく入って来た国朝との間に摩擦が生まれ、それが土地の帰属問題となって表面化したのではないかと思われる。いずれにせよ、太閤検地の実施されたこの時期下野各地で土地をめぐる争いか数多く有っただろうことが想像できる。
36図 宇都宮国綱花押(「石崎文書写」宇都宮市史2巻より)