豊臣政権下で一大名として存続した宇都宮氏は慶長二年(一五九七)一〇月、突然秀吉により改易(所領等の没収)された。改易の理由は国綱によると「不慮の子細(思いがけない事情)」や、「侫人(道理の分からぬ人)の申し成し」(「宇都宮国綱官途状写」)によったものであり、常陸の佐竹氏からすると「宇都宮殿御不奉公(勤めの中での誤り)」(「佐竹義宣書状写」)であった。いずれの理由にせよ、現存の史料からは確たる理由は見つからないが、荒川善夫は『戦国期北関東の地域権力』のなかで、「彼(国綱)を「指南」する立場にあった浅野長政を敵にまわし、浅野長政を含む徳川・前田・伊達氏などのグループ対国綱などを含む増田(長盛)・石田(三成)などのグループという図式=豊臣政権内部の権力闘争に巻き込まれ」たとしている。改易後の国綱は僅かの供とともに「妹婿たるによりて」(『宇都宮興廃記』)、岡山の宇喜田秀家の許へ身を寄せた。これにより平安末期の藤原宗円を祖とし、下野中央に二二代にわたり勢力を築いた宇都宮氏は没落し、宇都宮城以外の城館は廃城、従っていた家臣たちのほとんどが帰農、あるいは他へ仕官の道を求めて行った。しかしながら、改易に処せられた国綱も、その家臣たちも宇都宮家再興の夢を捨てきれなかった。