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朝鮮再出兵と高根沢氏

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37図 名護屋城天主跡より玄界灘を望む(佐賀県鎮西町)

 「不慮の子細」により改易に処せられた無念さと、宇都宮家再興の夢を持ち続ける国綱と旧家臣たちにとって、再興の絶好の機会が意外に早く訪れた。それは豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵(慶長の役)に対する、出兵要請であった。慶長の役は慶長二年一月に始まり、秀吉の死の翌年八月に日本軍の撤退をもって終了するが、この時の国綱の動向については『宇都宮高麗帰陣軍物語』(『宇都宮市史・別巻』)に詳しく記されている。同書によると、出兵開始の翌年二月初旬秀吉が石田三成・増田長盛を召して「宇都宮侍従弥三郎国綱不届の儀」により備前の宇喜多氏の許へ預け置いたが、今回の朝鮮出兵において「粉骨忠節」の働きをすれば「前々のごとく本國へ召し置く」との命があったという。国綱にとっては宇都宮家再興の絶好の機会であり、すぐ「國元一族衆中」へ参陣を促す書状を出している。その結果、国綱主従は三月に肥前名護屋からお家再興の夢を乗せ渡海した。この時の人数は、五〇〇人という。このような時、宇都宮城にあったころは常に八,〇〇〇人余りの人々が参集したが、今は五〇〇人が限度であること、しかしながらこの渡海により宇都宮家が再興できるという二つの思いにかられ、船上で「感涙」を流す人もあったという。
 この三月の渡海については、国綱の重臣清水高信がやはり重臣の玉生氏宛に出した書状(「清水高信書状写」史料編Ⅰ・五八六頁)に「殿様近日御渡海」との記載があることからもわかる。同書状では玉生氏に対し「秋中か来春に各々の替わりとして」の渡海を促し、「高新(高根沢新右衛門)」等へも相談するよう指示している。宇都宮氏の改易に伴い主家を失った高根沢氏も、この時期一縷の望みをもち主家再興のため奔走していたことがうかがえる。
 この後、国綱は四月二八日に朝鮮半島の全羅道今順天の地に到着し、一〇月三日には明の大軍と激戦があった。しかし、この二カ月前の八月秀吉は病により没しており、朝鮮での活躍により宇都宮家を再興しようという国綱の願いは閉ざされてしまった。秀吉の死後、日本軍は朝鮮から撤退しており、その年の一二月には国綱も帰国している。三月の段階で高根沢氏は渡海していないこと、第二陣の渡海が早くても秋であり八月には秀吉が没したことを考えると、慶長の役での高根沢氏の渡海はなかったものと思われる。

38図 宇都宮家の墓所(益子町)