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慶長二年の高根沢

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 秀吉の没後、関カ原の合戦を経て天下は徳川のものとなる。激動の時代であれば宇都宮家再興の機会もあろうが、徳川氏の下で社会が安定化に向かう情勢を見てか、この後国綱は伊勢神宮内宮の神の加護にすがり家の再興を目指している。言葉を変えれば、国綱にとって残された道は神仏にすがることしかなかったということであろう。しかしその願いは達成されず、諸国流浪の末、慶長一二年(一六〇七)一一月武蔵浅草石浜の地で四〇歳で病没した。
 ここに宇都宮氏が改易された慶長二年銘の一冊の『旧臣姓名帳』(史料編Ⅰ・七五四頁)がある。宇都宮氏譜代の家臣堀江善三郎の写しによるもので、没落直後の宇都宮氏配下の村と人名が記されている。これによると、高根沢地域に係わる村としては、高根沢郷・阿久津村・栗ケ嶋村・石末村・上平田村・下平田村・大谷村・上柏崎村・関俣村・桑久保村・太田村が見え、家臣だったとされる人々の名がそれぞれの村に書かれている。例えば高根沢郷には、宇塚・宇津・阿久津・黒崎・加藤・小林・螺良・大島・斎藤・綱川の名が見える。宇都宮氏の改易後、主家の没落の中で宇都宮氏関連の城館は廃城となり多くの家臣は仕官の道を模索し、あるいは帰農したと思われるが、高根沢地域内の多くの人々もまた同じ道をたどったと考えられる。

39図 「旧臣姓名帳」中の地名分布(『宇都宮市史3巻』より)