日本に仏教が公式に伝わったのは、六世紀中ごろである。崇峻元年(五八八)に百済から寺工や鑪盤工、瓦工、画工が招かれ、我が国最初の寺院である法興寺が飛鳥の地に建てられた。また三宝興隆の詔が推古二年(五九四)に出されるなど仏教が積極的に奨励されたため、諸臣は競って氏寺を建立した。
関東地方では、七世紀前半の創建と推定される寺谷廃寺(埼玉県)が最もはやく、後半ごろには仏教もかなりの地域に浸透していた。栃木県内では、この時期のものに大内廃寺(真岡市)や浄法寺廃寺(小川町)、上神主廃寺(上三川町)、下野薬師寺(南河内町)等が知られている。
仏像彫刻では、深大寺(東京都調布市)の銅造釈迦如来倚像や龍角寺(千葉県印旛郡)の銅造薬師如来坐像、武蔵国分寺(東京都国分寺市)跡出土の銅造観音菩薩立像等が最も古く七世紀後半の作である。これらの像は、古墳文化の担い手であった地方豪族の関与が想定され、前二者は中央の作、後者の観音菩薩立像は地元での造作である。
県内ではこの時期のものは未確認だが、八世紀になってからの作に大谷寺(宇都宮市)本尊千手観音菩薩立像がある。石心塑像という技法によって作られており、下野薬師寺の造営に参加した仏師の手によるものと思われる。この下野薬師寺跡から出土した塑像による螺髪や鑑真和上請来との伝承をもつ銅造誕生釈迦仏立像(南河内町・龍興寺蔵)もこの時期の作である。他に八世紀初頭ごろの新羅時代の作である観音菩薩立像が那須地方に伝えられている。
平安時代になると、奈良時代に流行した乾漆や塑像、銅造にかわって木彫が主流を占め、初期の一木造りの量感豊かな仏像が関東各地でも散見できる。県内では、大関観音堂(宇都宮市)の聖観音菩薩立像や荒針観音堂(宇都宮市)の薬師如来立像、日光山輪王寺(日光市)の五大明王像等が確認されており、いずれも地元での造作である。
平安時代も後期になると、表現にやさしさが加わり、和様化も進んで「尊容満月の如し」とか「相好円満」とたたえられた美しく優美な定朝様式の仏像が県内各地でも多く見られるようになる。