1図 十一面観音菩薩立像(桑窪 大安寺蔵)
高根沢町で最初に仏教文化の影響を受けたものに、九世紀前半の大野遺跡(飯室)から出土した蔵骨器がある。しかし、仏像については一二世紀中ごろの大安寺(桑窪)の諸尊像を待たなければならない。この寺は、最澄との論争で有名な徳一上人開基との伝承があり、観音堂には伝徳一作の十一面観音菩薩立像と伝軍荼利明王立像、吉祥天立像の三体が伝存している。いずれもカヤ材の一木造りで、表面は虫害でかなり痛んでいるが全身に鉈彫と呼ばれる丸い鑿跡が残っており、胸前に木心部があって木裏から木表に向かって彫られたことがわかる。また、顎から喉元にかけてほぼ直角に彫るなど三体に共通した特徴も認められ、一人の仏師が同じ木材を使って造作した像である。顔や衣褶の彫りは簡略で、動きの少ない穏やかな作風など平安末期の作である。
十一面観音菩薩立像(像高八八・二センチ)は、左手に水瓶又は蓮華を持つ二臂像が一般的である。作例は少ないか、四腎像(四本の腕を持つ仏像)や六臂像もある。本像のように合掌手だけの二臂像は他に類例がなく、何を典拠に造作したのか不明である。現在は、両肩脇から背面にかけて虫害が激しく、あるいは盛安寺(滋賀県)の四臂立像のように正面で合掌し、他の二臂は、背面から左右に両手をのばして持物を取る形姿だったことも考えられる。
伝軍荼利明王立像(像高八四・六センチ)は、忿怒相で炎髪、両腕を屈臂して胸前で交差させ左脚を踏み上げた形姿である。現状は両肩先や足が後世のものに変わっており、当初の姿が改変された可能性もある。一般に一面三目八臂像が多く、本像も八臂像ではなかったかと思われる。
吉祥天立像(像高七九・二センチ)は、現状左肩さがりと右上膊部なかほど、両足のそれぞれ先が後世のものに変わっている。一般に大袖の上に括り袖のガイ襠衣、下半身に蔽膝を着け、肩に領巾をめぐらして沓をはく姿である。本像はかなり簡略化されているが、ほぼそれに近い形姿である。
以上の三尊像を一具とする群像は、他に作例がなく何か特殊な信仰による組合せなのか、あるいはもっと多くの仏像があったのか不明である。吉祥天以外の尊名についても再考の余地がある。