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〔中世の仏像彫刻と仏画〕

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 関東地方が政治や文化の面で注目されるようになるのは、鎌倉に幕府が開かれてからである。京都や奈良との交流が頻繁となり、街道も整備され、多くの文化人が東国に下向するようになる。また、鎌倉中期ごろから中国の宋・元文化が直接鎌倉にもたらされ、下野地方にも鎌倉で流行した文化が同時期に入ってきた。
 例えば、文治元年(一一八五)に源頼朝の招きで奈良仏師の成朝が鎌倉に来て勝長寿院に丈六の阿弥陀如来像を造立、文治二年には運慶が北条時政のために伊豆・願成就院に阿弥陀三尊・不動三尊・毘沙門天像を造立、さらに文治五年にも別当和田義盛のために阿弥陀三尊・不動明王・毘沙門天の五尊像を造るなど、中央の一流仏師が直接造仏を行うようになる。
 栃木県内でも、足利氏との関係から運慶が一二世紀後半に大日如来坐像(足利市・光得寺蔵)を作り、同じく鎌倉時代の代表的仏師である快慶の阿弥陀如来立像が真教寺(足利市)に伝存している。いずれも藤原時代の円満優美な作風と異なり、男性的で力強い造形である。これらの作品は、奈良仏師が鎌倉幕府の武将たちとの結びつきによって制作したもので、鎌倉初期東国の造仏に運慶を中心とする慶派の様式が大きな影響を与えた。鎌倉中期になると、宋風様式の影響を受けた装飾豊かな仏像が鎌倉地方を中心に東国全域でも造仏されるようになる。県内の代表的作例に西明寺(益子町)の木造千手観音菩薩立像や永徳寺(市貝町)のお前立木造千手観音菩薩立像、長泉寺(上三川町)の木造十一面観音菩薩坐像、清水寺(大平町)の木造千手観音菩薩立像等がある。