5図 阿弥陀如来御影像(宝積寺 定専寺蔵)
定専寺(宝積寺)には室町時代の画像が四幅伝来している。いずれも痛みがひどく天地左右が縮められたり、補修の部分があったりと保存状態は良くない。大略は次のとおりである。
見真大師御筆の伝承をもつ画像は、「南無阿弥陀佛」の六字名号を中央に、その周辺に数名の高僧像が描かれている。全体に油煙で黒く、中央部に欠落して不鮮明なところもあるが、現状は向かって左側に上畳に坐した三名の高僧が左斜め向きに描かれ、右側に二名の高僧が右斜め向きに描かれている。いずれも墨染の袈裟を着しており、寺伝による「六字名号・七躰連座御影像」(絹本著色六八・五×三三・〇センチ)と思われ、真宗における法脈相承を図示した画幅である。
他の三幅は来迎印を結んで蓮台上に立つ阿弥陀の独尊像で、四八本の光芒を廻らした「方便法身尊像」である。桑窪の徳明寺にも、江戸時代の作だが同様のものが一幅伝来している。この徳明寺には、本願寺の釋廣如が安政二年(一八五五)に下附した時の裏書が残されている。一般に浄土真宗では仏像や仏画を任意に制作・安置することが許されず、一定の順序を踏んで本山から下附されたのである。その時に添付された書を「裏書」と呼んでいる。定専寺の画像にも裏書があったと思われるが未確認である。
従来の仏教は造寺造仏を善行としたが、親鸞は称名一途に生きることを説き、「南無阿弥陀佛」の六字名号や「南無不可思議光佛」の八字名号などを重視し「木像より絵像、絵像より名号」を重んじた。真宗の本尊観を象徴するものである。
室町時代になり、真宗教団が整えられるにしたがって最も一般的に普及したのが定専寺に伝来した阿弥陀如来の御影像である。これらの画像も本願寺歴代のお墨付きがあり、末寺や門徒に下附された。
ところで、そのうちの一幅の絵像(絹本著色九〇・〇×三五・〇センチ)が四八条の光明のうち頭部真上と蓮台真下に発する二条が描かれ、さらに阿弥陀像の着ている袈裟の田相部の文様が精緻な卍繋ぎの截金文様を基調とするなど古様が特徴を備えた絵像である。また頭部の肉髻部が低平で丸くはちきれるように健康的な尊顔など、室町期というよりも鎌倉風である。「方便法身尊像」がいつごろから描かれるようになったのか定かではないが「慕帰絵」第一〇巻第二段に、覚如上人の枕元に阿弥陀如来の絵像が懸けられており、一四世紀中ごろには描かれていたことが確認できる。定専寺本の一幅はそれより若干時代はくだるころの作である。
他の二幅のうち、一幅は油煙で表面が真っ黒になって尊像の輪郭さえ定かでない。恐らく、現存の本尊である江戸時代作の木造阿弥陀如来立像が造立される以前の本尊として、礼拝されてきたため現状のような状態になったのであろう。