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中央仏師の作

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 高根沢にも七条仏所の仏師が造立した十一面観音菩薩坐像が阿久津勇夫家の観音堂(中阿久津)にある。像高三一・五センチ、桧材の寄木造り、玉眼嵌入で像内背面に次のような墨書銘がある。
 
  運慶脉京七篠大佛師高證法印流
   京烏丸佛師 廣瀬宗運     作之
  十一面観音  同征次良大夫
      庚
   延賓八年三月吉辰
       申
     近江田中定良 □□□□
 
 仏師宗運は、他にも天和二年(一六八二)に宗泉寺(神奈川県藤沢市)の釈迦如来坐像を造立している。銘文の内容もほぼ同じである。十一面観音菩薩坐像は江戸初期の標準的な作風だが、宗泉寺の釈迦如来坐像は中国・明末の禅宗様の影響を受けた作である。宗運はかなり高齢だったと思われるが、当時の新しい様式をも取り入れるなど進取に富んだ仏師であった。十一面観音菩薩坐像の銘文中に「運慶脉京七条大佛師高證法印流」とある。この高證は元和七年(一六二一)に八八歳の高齢で亡くなった七条仏所二一代の康正ではないかと思われる。彼は桃山時代の代表的仏師であり、中世から近世への転換期に最も活発に造仏活動を行った仏師である。「本朝大佛師正系系図」の康正の項に「定朝以来七条住人也今四条烏丸通永屋町住」とある。宗運の肩書にも烏丸佛師とあり、康正の弟子だったと思われ、晩年は江戸を中心に仕事をしていた。
 他に県外の仏師の作に、享保二年(一七一七)に日蓮上人坐像(上柏崎・妙顕寺蔵)を造立した大仏師松村當左衛門や嘉永六年(一八五三)に阿弥陀如来立像(桑窪・徳明寺蔵)を修理した豊州住伊藤清眼藤原種秀、明治三年(一八七〇)に四菩薩立像(亀梨・妙福寺蔵)を造立した尾州名古屋の大佛師田中主水等が知られている。なお田中主水は圷観音堂(南那須町)の聖観音菩薩立像の修理墨書銘に「明治廿八年旧二月十五日河内郡大字小薬□佛師田中主水彩色俗名塚源吉」とあり、現在の小山市小薬に土着して造仏活動を行っていた。