大安寺(桑窪)には、大仏師荒井数馬が寛政四年(一七九二)に造立した如来立像がある。総高三八・四センチの一木造り、彫眼の漆箔像で台座裏に次のような墨書銘がある。「野刕續谷之/住人古春/寛政四歳丁子十月吉日/大佛師数馬敬作」。他にも天明元年(一七八一)に数馬が補修彩色した十一面観音菩薩立像(下柏崎・観音堂蔵)がある。
二体とも造形的に取り立てて論じるほどの作ではないが、江戸末期に続谷村(市貝町)を中心に造仏活動を行っており、現在のところ三〇件近くの作品が判明している。最も古い作が明和六年(一七六九)銘の不動明王立像(市貝町・薬師堂蔵)、最も新しい作が文化一三年(一八一六)銘の釈迦如来坐像と三十三観音像(塩原町・観音堂蔵)である。
この間四七年、文化一二年銘の大黒天像(市貝町・個人蔵)の墨書銘に「荒井二代数馬三十三/脺二代友蔵六才」とあり、仏師を二代続けたことがわかる。名前も享和二年(一八〇二)名の弘法大師坐像までの一八件がすべて数馬・数馬古春である。また、居住地も「續谷住人大仏師」とある。ところが文化二年(一八〇五)銘の大日如来坐像(塩原町・観音堂蔵)に「宇都宮大佛師」とあり、肩書が続谷から宇都宮に変わった。しかし二年後の文化四年銘の神像(粟野町・医王寺蔵)ではまた元の「続谷住人大佛師」となり、以後変わることがない。
恐らく天明から寛政年間にかけて南那須、芳賀、益子、粟野と注文の範囲が広がるにつれ、さらなる飛躍を求めて仏所を宇都宮に移したのである。しかし宇都宮には高田一門の七代目運秀がおり、双方の間で確執があったのか、あるいは病に倒れたのか、わずか二年で宇都宮を引き払っている。妙蕙寺(市貝町)の過去帳に「竹之内佛師惣七/戒名徹宗賢髓信士/文化六年十月六日」とある。惣七は数馬古春の実名であり、時に六一歳であった。死因は不明だが、彼の死後二代目数馬應弁への注文は急激に減っており、現在のところ文化一三年までの七年間で四件しか判明していない。文化一一年(一八二八)には続谷村近くの玉窓寺(市貝町)の高僧像と道元禅師坐像、永徳寺(市貝町)の地蔵菩薩立像が高田運秀によって造立されるなど、仏師荒井家の居住地周辺まで高田一門の勢力が浸透してきた。二代目には悴の友蔵もいたが、文化から文政年間に変わるころには仏師を廃業したようである。
残された作品のうち最も大きな作が六九センチで、大半が三〇センチ前後の小さな像である。如来像や菩薩像、天部像、明王像、祖師像、神像とさまざまな尊像を作っているがほとんどが一木造りの彫眼、表面仕上げも泥地彩色像である。技法的には簡略で、技術や儀軌を独学で身につけたものと思われ、大安寺の如来立像も数馬の標準的な作である。
星宮神社(飯室)の正徳三年(一七一三)銘の棟札に「造立大工續谷村荒井三左衛門」とある。この人物と数馬の関係は不明だが、同じ續谷村の荒井姓であり近親者だった可能性もあり、彫物大工から仏師に転向したことも考えられる。