寛文11年 下太田村ほか入会野場争論裁許絵図(太田 加藤一雄家文書)
天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉により小田原の後北条氏が滅亡し、徳川家康が江戸に入った。このときから、関東、そしてこの下野にも新しい近世の時代の幕があくことになった。
下野の多くは、まだ家康の領国の圏外におかれていた。当時、河内・芳賀・塩谷郡の大部分は、鎌倉時代以来の名族である宇都宮国綱とその一党である芳賀・益子・塩谷氏等が勢力を占めていた。その北の那須・塩谷郡は那須資晴とその一党である大田原・大関氏等の那須衆が占めていた。しかし、かれらの間には、すでに後北条氏からの働きかけと秀吉への対応の差により分裂、不和が生じており、動揺が広がっていた。
宇都宮国綱は、いちはやく秀吉と結び、後北条氏の滅亡後も旧領を安堵されて下野の雄としての地位を確保した。一方、那須資晴は、秀吉の参戦の命令に対して去就を明らかにしなかったことから、領地を没収され那須宗家は断絶してしまう。喜連川城の塩谷氏も資晴と同じ理由から領地を没収されて滅んでしまった。那須氏の配下の武将であった大田原・大関等の那須衆のみが旧領を安堵され、近世まで生き延びることができた。
後北条氏を滅ぼした秀吉は、軍を奥州に進めてこれを制圧し、ここに全国統一が成し遂げられた。それとともに、秀吉は制圧地において新たな検地を実施した。秀吉の武将が直接現地に派遣されて実施したこの検地は、太閤検地と呼ばれている。この検地は下野各地でも文禄四年(一五九五)にかけて実施された。高根沢の大谷村に太閤検地が実施されたのは、文禄四年十一月のことであった(史料編Ⅱ・一三一頁)。
[関連史資料] 大谷村の太閤検地帳 (目録)
慶長二年(一五九七)、宇都宮国綱が突如として領知を没収され滅亡するという事態が生じた。この突然の改易は「不慮の子細」と言われるだけで、本当の理由は不明である。太閤検地の実施にともなう石高の不正申告が原因だとか、あるいは国綱の後継者をめぐる宇都宮家臣団の内紛とそれを収拾できない国綱の統治力不足だとか推測されているが、真相はわからない。恐らくこのような諸事情があったところに、秀吉政権内部の武将間のあつれきに巻き込まれて、鎌倉時代以来の下野の名族宇都宮氏の滅亡となったものではなかろうか。
この改易により、宇都宮氏の勢力は、配下の芳賀・氏家などの武将も含めて、下野から一掃された。さらに村内の小領主たちも武士として生きる道が閉ざされて、帰農土着を選ぶようになった。下野の肝煎、庄屋、問屋などには、宇都宮氏を始めとする旧臣が帰農したものと言い伝えを持つ家が少なくない。近世下野の農村社会は、この「宇都宮崩れ」と伝承される宇都宮氏の改易の中から誕生してきたとも言えるのである。