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譜代藩宇都宮の成立と寛文印知

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 慶長五年(一六〇〇)の関が原の戦いに勝利し天下人となった徳川家康は、領知の再配分をおこなった。翌六年には宇都宮に家康の外孫にあたる奥平家昌が十万石という下野最大の石高をもって入部してきた。以後、宇都宮は北関東の要衝の地として、代々譜代大名が支配することになった。さらに日光に東照宮が造営されるようになると、宇都宮は「関東の喉首の地」として江戸の死命を制す防衛線であるばかりでなく、幕府の聖地日光を守る特別な意味を持つようになった。
 また、宇都宮以外でも、那須衆であった大田原・大関家を例外として、下野の地から旧族の外様大名は姿を消していった。代わって将軍の側近であった者などをはじめ、老中、若年寄など幕府の要職を歴任する譜代大名がやってくるようになった。
 寛文四年(一六六四)、将軍徳川家綱は全国の諸大名に一斉に領知判物・領知朱印状と領知目録を交付した。寛文印知と呼ばれるものである。このとき下野国内に居所を置く七大名のうち、那須衆であった大関、大田原の二家が外様の小大名で、残りはすべて譜代大名であった。下野は譜代大名の土地になっていた。
 このとき宇都宮藩は、奥平美作守に対し「河内、塩屋(谷)、芳賀、都賀四郡の内に都合拾壱万石」の領知判物が下された。このときの領地目録によると、高根沢においては「大谷村、関俣村、西高谷村、前高谷村、石末村、上阿久津村、中阿久津村、宝積寺村、寺渡戸村、太田村、平田村、土室村、柏崎村、桑窪村、栗ケ島村、高根沢村」が宇都宮藩領であり、現在の高根沢町の大半が宇都宮藩領であったということになる(史料編Ⅱ・一二三頁)。宇都宮氏の滅亡後も、高根沢は政治上では宇都宮の支配を受ける状況が、しばらくの間は続くことになる。この状況に変化が現れるのは、十八世紀にはいってからになる。

1図 寛文4年の下野諸大名