近世下野には大きな大名が配置されることがなく、比較的小さな大名が多かった。下野中心部の宇都宮藩でも、最も大きかったのは近世初期に短期間在封した本多正純と松平忠弘のときであり、領知は十五万石を超える程度にすぎなかった。
寛文四年のころ、下野国内に置かれた七大名領のほかに、他国の十五藩の飛び地と水戸・館林の両徳川家領を加えると、下野の大名領はおよそ四十・八万石となる。下野全体では、元禄郷帳でも六十八万石なので、大名領以外はおよそ二十七万石程度ということになる。幕末には、下野全体七十七万石のうち、大名領三十九万石、それ以外が三十八万石であった。寛文と幕末を比較すると、大名領は若干減少しているのに対し、大名領以外、即ち旗本領・天領等が大幅に増加しているのが目立つ。
殊に、下野の旗本領は、江戸に近いこともあって時代とともに次第に増加していった。「地方直し」と呼ばれる旗本に直接知行地を与える幕府の政策も、旗本領の拡大に大きな影響を与えた。高根沢においては、元禄十年(一六九七)の元禄の地方直しと、ちょうど同じころから進行していった宇都宮領の縮小にともなう影響が大きかった。
高根沢は、大部分が宇都宮藩領であった近世前期の様相から、多数の領主に細分化されていった中期以降の新しい段階へと移っていった。