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宝積寺村

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3図 白鬚神社(宝積寺)

 鬼怒川左岸、中阿久津村の南に位置している。近世当初から宇都宮藩領であったが、中阿久津村とともに天明年間には一時幕府領となり、その後また宇都宮領として明治を迎えている。この村名の由来について、「地誌編輯材料取調書」は次のように伝えている。宇都宮国綱によって慶長二年(一五九七)下阿久津村の字月馬場に宝積寺という尼寺が建立された。同八年にこの寺が鎌倉に移転して廃寺となったとき、その名を惜しんで下阿久津村を改称し宝積寺の号を村名としたものである。
 元和六年(一六二〇)の検地帳では、田四十三町歩余、畑五十六町歩、屋敷二町歩余、計百一町歩余であった(史料編Ⅱ・一五三頁)。石高は、六百四十七石九斗三升一合、内、田四百六十九石余、畑百七十七石余(慶安郷帳)、七百九十七石一斗九升(元禄郷帳)、八百二十六石五斗五升三合(天保郷帳)と変遷していった。戸口は、寛延二年(一七四九)百四十六軒、六百五十八人、安永三年(一七七四)百四十八軒、五百九十人、慶応元年(一八六五)九十一軒、四百四十九人となっている。
 上阿久津、中阿久津、宝積寺村の三か村は、上阿久津村の字釜ケ淵で鬼怒川から取水する釜ケ淵用水を利用している。堰元は上阿久津村にあり、大規模な普請工事は三か村で領主に願い出たが、それ以外は村が自普請として用水路の管理をした。この用水の起源は古く、寛延二(一七四九)年の「村指出帳」には既に記されて、現代にまで続く歴史をもっている。
 安永三年「船 二十艘、一艘につき運上金一分二朱」とあり、また船役として「竹木江戸出しの節は筏組み江戸まで届ける」とある。舟運も行なっていたようだが、その後「先年は村持船二十艘御座候ところ、天明七年より追々相減じ」て、慶応元年には、草刈り用の渡船が一艘のみとなっている。
 鬼怒川に接しているため洪水による影響を度々受け、「川欠地」として年貢免除の措置を取られていた。寛延二年の「村指出帳」では、「川欠、石砂入地」となったのは全村の十一パーセント余に過ぎなかったが、村内でも十七世紀の寛文、延宝期の新田部分では二十六パーセント余、十八世紀以降の新田畑では六十二パーセント余が「川欠地」となっていた。特に、飢饉さ中の天明七年「村明細差出帳」では、「川欠地」は田の四十~五十パーセントにも及んでいた。先の中阿久津村についても地理的環境は共通しており、川欠けは同様なものがあったであろう。