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大谷村

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 西は宝積寺台地から、東は五行川沖積低地にかけて位置し、南は石末村に接している。中世には「青谷」「青屋」、また近世には「大屋」と記されることもあった。近世初頭以来の宇都宮藩領であったが、寛延二年から安永三年まで佐倉藩領のときを経て、その後はまた宇都宮藩領に戻って明治を迎えている。
 この村には、文禄四年(一五九五)の検地帳が現存し、石高四百五石八斗五升八合、うち田二百七十五石余、四十二町歩余、畑・屋敷百三十石余、四十六町歩余であった(史料編Ⅱ・一三一頁)。慶安郷帳では四百六十四石余、うち田三百四十三石余、畑百二十一石余(屋敷地は除く)である。明暦二年(一六五六)の検地では石高七〇四・九六六石となり、文禄から明暦の間に二百九十九石余が増加したことになる。この六十年間の石高増加率は七十三パーセント以上となっていた。戸口は、安永四年に百三十一軒、五百七十一人、天保十五年に五十七軒、二百八十一人、慶応元年六十七軒、三百九十二人であった。
 村は「西北より東南に至るにしたがい漸次低下し」「流水悉く東南に漑く」の地形であった。享保八年(一七二三)の下野史上最大の五十里洪水では、「浅き所五、六尺、深き所一丈余、全村皆水」の様相を示し、流失人家四十五軒、溺死十四人、溺馬十三頭の被害を受け「本村古今未曽有の変事」となった。近世には、真言宗正善寺が記録されているが現在は廃寺となっている。また、高龗神社は今に伝わっている。