宝積寺台地から東の野元川の流域に広がり、石末村の南に位置する。その南は芳賀郡下高根沢村に接し、東端に五行川が南流している。近世初頭は宇都宮領であったが、延享三年(一七四六)に一橋領が設置されるとその領知に繰り込まれ、明治に至っている。村内には一橋家の代官陣屋が設けられ、また名主の宇津権右衛門が年貢取立役を勤めるなど、下野の一橋領支配の拠点となっていた。
石高は、千十九石二斗八升七合、うち田八百四十一石余、畑百七十七石余(慶安郷帳)、千三百四十六石二斗四升四合(元禄郷帳)、千四百三十二石五斗八升五合二勺(天保郷帳)であった。戸口は、寛延二年には二百三十七軒、千二百五十一人であった。大村の上高根沢村は、字西根の宇津権右衛門と字向戸の阿久津半之助が村を折半し、権右衛門組と半之助組の二組として、代々名主を世襲していた。
寺社は、真言宗淨蓮寺、安住神社以下が今に伝わる。
また、この村に生まれた家伝薬「救命丸」は、小児常備薬として現在に生きている。
[関連史資料] 野州塩谷郡上高根沢御陣屋之図 (目録)