五行川の右岸、栗ケ島村の北に接し、太田村の西に位置する。近世当初以来宇都宮藩領であったが、一橋領の成立とともに一橋領になり、文政十年に上知されて天領となり明治に至っている。
石高は、八十四石六斗三升二合、うち田七十二石余、畑十二石余(慶安郷帳)、また、明暦二年(一六五六)の検地では、田百二十三石余、十六町歩余、畑・屋敷五十四石余、二十一町歩余であった(史料編Ⅱ・一九八頁)。その後は、百八十八石四斗九升五合五勺(元禄郷帳)、二百十八石四升(天保郷帳)となっている。戸口は、宝暦二年(一七五二)に二十六軒、百五十八人であった。近隣の栗ケ島村と上高根沢村の三か村入会の秣場があった。