五行川の流域、西高谷村、平田村の北に接し石末村の東に位置している。近世初頭以来の宇都宮領であったが、一橋領の設置とともにその領知に繰り込まれ、文政十年に上知されて天領となったが、天保年間(十四年か)に分郷されて旗本知行所と天領の相給となって明治を迎えている。
石高は、四百十八石五升、うち田三百十三石余、畑百四石余(慶安郷帳)、五百五十四石八斗一升五合五勺(元禄郷帳)、五百六十石六升一合(天保郷帳)となっている。天保年間の家数は四十四軒とある。秣場については、隣村の平田村内の東高野、南隣の西高谷と絶えず争論を繰り返していた。明治九年(一八七六)になり、関俣村と合併して「花岡村」となる。