喜連川丘陵の西端に位置し、北は土室村に、南は桑窪村に接する。丘陵上の南北に走る街道の東側は亀梨村である。亀梨村と合わせて台新田とも呼ばれ、古くからの荷駄運送が盛んであった。街道上の柏崎宿はここを指すようである。また、丘陵と西の低地との境には市の堀用水が流れている。
近世当初は宇都宮藩領であったが、寛文のころ那須衆の福原知行所、元禄期には旗本知行所、一橋領成立後は文政期まではその支配地となり、その後は天領さらに旗本知行所として明治に至っている。石高は、百五十一石三斗二升、うち田八十二石余、畑六十八石余(慶安郷帳)、二百一石五斗二升八合(元禄郷帳)、二百五十四石六升五合八勺(天保郷帳)であった。天保年間の家数は二十二軒とある。