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土室村

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 井沼川の東側に喜連川丘陵にかけて位置し、中央部には市の堀用水が流れている。南は上柏崎村、西は平田村に接する。土室村は、安政元年(嘉永七年、一八五四)に村名を「飯室村」と改めている。近世初頭以来ずっと宇都宮藩領であったが、天明期の宇都宮藩の村替えによって上知され、その後また宇都宮藩領に戻り、さらに嘉永の宇都宮藩村替えにより、関俣村とともにふたたび上知されて、幕府天領として明治を迎えている。石高は、二百十石七斗四升、うち田百七十五石余、畑三十五石余(慶安郷帳)、二百八十六石三斗一合(元禄郷帳)、二百九十二石四斗三合(天保郷帳)であった。天保年間の家数は十一軒とある。
 丘陵突端に近いところには、市の堀用水開削の功労者山崎半蔵の墓と伝えられるものがある。また、幕末期には二宮尊徳仕法の導入を願い出た結果、吉良八郎が派遣されて仕法計画が作成された。