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伏久村

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 近世初期の寛永年間に文挟村の北西部が新田として開発され、近世後期になって独立分村した。当初は文挟新田と称していた。井沼川流域に位置し、南は文挟村、西は関俣村に接す。文挟村と同じく開発以来一貫して喜連川領であった。
 石高は、天保年間で百石、家数は三十八軒とある。明治初年には二百四十二石五斗三升八合五勺(「旧高旧領取調帳」)であった。板戸河岸から福原、蛭田への関街道として、明暦三年(一六五七)に問屋の名前がでてくる。