鎌倉時代や室町時代は、農業が最大の産業であり、産業の大部分を占めていた。よって土地が大切な生産手段であった。秀吉は、土地を検地して、それらの土地の生産力と耕作者を把握して、その土地を家来になった大名に分け与えた。また、耕作している農民を土地保有者として認め、それらの農民から直接年貢を取ろうとした。
さらに天正十六年(一五八八)の刀狩令によって、農民の武力を押さえ、農民を年貢負担者として土地に縛り付けようとした。
「検地は土地の境を改めることの総称で、田畑に竿・縄を入れて反別を改め、土地の位を調べ、石盛を付け、石高を定める法である」(『地方凡例録』)。秀吉が派遣した役人は、一つ一つの田や畑、屋敷地を、間竿を用いて測量し、面積、一反当たりの米の取れ高、年貢納入責任者などを定めた。
検地は強引に押し進められた。その土地の豪族や、荘園や郷村に勢力をもっていた有力名主など、土地の収益に何らかの特権をもっていた人々を屈服させながら進めた。
天正十八年(一五九〇)に小田原の北条氏を打ち倒した秀吉は、徳川家康を関東五か国に移封した。この年、陸奥国(今の東北地方)の検地が行われた。検地奉行は浅野長政、石田三成、大谷吉継であった。その時、出された文書が、次のものである。
秀吉が命じたことを、地方の武士達や百姓達に納得がいくように、よくよく言い聞かせよ。もしこちらの言うことを相手が聞かないで、検地に反対する覚悟ができているなら、城主の場合は、城に追いつめて、一人残らずなで斬りするように申しつける。百姓より下の者まで聞かないときは、一郷も二郷をもことごとくなで切りするように申しつける。六十余州堅く命じる。出羽の国や陸奥の国をもいい加減にはしない。たとえ、住む者や耕す者がいなくなっても差し支えない。太閤秀吉の考え通りにせよ。山は山の奥まで、海は櫓と櫂の続く限り、どこまでも念を入れることが第一である。万一、お前らの中で、この検地を怠ることがあったら、関白自身が検地を指図する。必ずこのことを承知させるようにせよ。
八月十二日(一五九〇年) ○秀吉朱印
浅野弾正少弼とのへ
(「浅野家文書 大日本古文書 家わけ第二」)
文禄三年(一五九四)に佐竹義宣領の常陸国(茨城県)の検地が石田三成によって行われた。佐竹領であった芳賀郡小深村(茂木町)でも検地が行われた(『栃木県史』通史編四・八三頁)。
翌文禄四年には、浅野長政によって、宇都宮国綱領の河内郡や塩谷郡でも検地が行われた。下岡本村(河内町)の五月女哲郎家文書や下小倉村(上河内町)の杉山壮雄家文書に文禄四年の検地帳が現存している。また、高根沢町大谷の阿久津哲大家にも文禄四年の検地帳(史料編Ⅱ・一三一頁)がある。
1図 文禄検地帳の所蔵者 阿久津哲大家(大谷)
2図 大谷村の文禄検地帳(大谷 阿久津哲大家文書)