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大谷村の太閤検地帳

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 この検地帳の奥書には、検地奉行人として、
 
  浅野弾正少弼内 柘植 市左衛門尉(花押)
  宇都宮侍従内  芳賀 駿河守  (〃)
   同      大宮 久右衛門尉(〃)
   同      横田 九左衛門尉(〃)
   同      菅俣 彦兵衛  (〃)
  芳賀十郎内   大塚 左馬助  (〃)
   同      小曽根大学   (〃)
   同      保坂 大炊助  (〃)
 
の八人の名前が記載されている。豊臣秀吉の五奉行の一人浅野長政の家臣名や宇都宮氏の家臣名が見えるので、この検地帳は秀吉の命によって、浅野長政の行った太閤検地であることがわかる。
 この検地帳の表紙や奥書に大谷の地名は記載されていないが、田畑屋敷の所在名に「にしおふ屋、宮下、中丸、大屋、大谷」などと書かれているので、大谷村の検地帳と断定した。
 太閤検地は天下人豊臣秀吉の全国統一の政策の一つであった。そのため検地のやり方も原則が貫かれた。文禄三年の伊勢国検地条目によると、
 
  一、六尺三寸四方を一歩とする。
  二、三〇〇歩を一反とする。
  三、田、畑の良し悪しを上・中・下・下々に分ける。
  四、石盛は上田一石五斗とし、以下二斗下がりとする。
  五、土地の種目は田・畑・屋敷の三つとする。
  六、升は京升を使う。
  七、村の境を定めて、村単位に検地を行う。
 
とある。
 この検地条目と大谷村の検地帳を比べると、石盛は1表「石盛一覧」のとおりである。参考に河内郡下小倉村の文禄四年検地帳の石盛も載せた。
 伊勢地方に比べて、大谷村の石盛は田が六割から四割五分、畑が三割八分から二割五分と低い。当時の農業生産技術は近畿地方の方が関東より数段高かった。また、下小倉村より大谷村の方の石盛りが低かったが、下小倉村は鬼怒川の氾濫原の肥えた所に位置していた。一方、大谷村は五行川が流れていて、土地はやせていたと推測される。
 検地の時には検地奉行の外に下奉行や手付け役人、案内人、竿取りなど多くの者が従っていた。大谷村検地帳には「地引案内」として「堀内右衛門」が記載されている。
 しかし、この右衛門の名前は検地帳には出てこない(2表「大谷村 文禄四年検地帳 土地面積一覧」)。時代は遅れるが、寛永十四年(一六三七)に下高根沢村上鷺谷の主水へ、地引案内の功で年貢を免除するという免状が出された例がある(史料編Ⅱ・二二一頁)ので、村の有力人であった右衛門の場合も案内者として、年貢免除が認められたのではないかと考えられる。
 この右衛門の案内によって、大谷村の一つ一つの田や畑が測られて、上・中・下・下々の等級が付けられ、その田や畑の耕作者名が記録されていった。
 検地帳の記載のしかたを説明すると、
 
     前田             ほり内
  上田  一反七畝   一石五斗三升   源兵衛
     同              同
  上田  二反七畝十歩 二石四斗六升   石見守
 
とある。
 前田が耕地の字名で、堀内が耕作農民の源兵衛が住んでいた字名である。田の面積一反七畝が上田と認められ、上田の石盛りが九斗であるから、九斗×一反七畝=一石五斗三升の生産高の土地となった。
 このようにして一つ一つの土地に農民の名前が記録され、耕作権が認められ(2表「大谷村 文禄四年検地帳土地面積一覧」)、耕作権の保障とともに、彼らが年貢や労役の負担者とされた。この結果、大谷村の田四十二町一反六畝二十五歩、畑と屋敷四十六町二反十歩の合計八十八町三反七畝五歩が書き出された。土地所有面積の最大は石見守の三十六筆、八町七反三畝二十五歩、五十石二斗七升三合であり、農民一人当たりの面積は約八反七畝、石高約四石二升である。奥書(史料編Ⅱ・一五二頁)に
 
   田畠 都合八十八町三段七畝五歩
      都合分米四百五石八斗五升八合
     右米永楽ニシテ百三十五貫二百八十六文
 
とある。石高制を採っているが、中世の名残である永楽銭の表記(一貫=三石替え)もしてある。
 また、「若色分」などとの分付の表記も見られる。
 
     大ツほ             若色分宮下
  上田  一反七畝二十歩 一石五斗九升   新六郎
 
 太閤検地は、一つの耕地に一名の耕地保有者のみを付ける一地一作人を原則としたが、中世における支配関係の全てをなくすことができなかった。「若色分」が分付主すなわち旧来の土地支配農民、「新六郎」が分付百姓すなわち実際の耕作農民である。
 分付は二十六筆で、分付主は糟谷善七郎、若色助八郎の二名である(3表「大谷村 文禄四年 分付主一覧」)。分付主糟谷善七郎には、新五郎、源右衛門、新蔵坊など十六名の分付百姓がいた。糟谷は十八筆、三町四反二畝歩を保有していた。分付分は、大谷村の土地面積八十八町三反七畝五歩の約三・九パーセントである。
 こうした農民身分のあり方を見ると、宇都宮氏が近世大名へ移行していこうとする姿も見られる。
 このほか、「関又(関俣)和泉守」「氏家 民部少将」など、他村からの入作と思われる記載がある。
 
1表 石盛一覧
大谷村
文禄検地帳
寺渡戸村
文禄検地帳
下小倉村
文禄検地帳
伊勢国
検地条目
上々田9斗5升1石2斗
上田9斗1石3斗1石1斗1石5斗
中田7斗5升1石1斗9斗1石3斗
下田5斗8斗5升7斗1石1斗
下々田1斗3斗2斗見計らい
相定めるべき事
上々畑7斗
上畑4斗5升7斗6斗1石2斗
中畑3斗6斗4斗1石
下畑2斗4斗3斗8斗
下々畑9升1斗5升1斗5升見計らい
相定めるべき事
屋敷4斗5升注 8斗5升6斗1石2斗

注.寺渡戸村の屋敷の石盛は「下田」並である。(史料編Ⅱ・192頁)
  大谷村と寺渡戸村は(史料編Ⅱ・131・191頁)より作成
  下小倉村は(『上河内村史 上巻』366頁)より作成
  伊勢国は「就伊勢国御検地相定条々」(『体系日本史叢書7 土地制度史Ⅱ』48頁)より作成
 
2表 大谷村文禄4年検地帳土地面積一覧
No.他村名前筆数田畑合計屋敷面積
面積石高筆数空屋敷
筆数
1石見守368732550.2731112
2太郎衛門3652720.708216201
3四郎衛門233472016.6432951
4二郎右衛門283171015.55731051
5与右衛門253001515.2391320
6帯刀243001514.8722815
7助久郎212631510.258131
8源二郎20247512.71220
9助二郎142421512.73321720
10源兵衛142392510.8372520
11清五郎1923510.41215
12源衛門11179159.6021120
13甚助1017958.889
14神助14176157.17238202
15平右衛門13169155.918
16弥左衛門16155158.80912
17五郎右衛門1815557.208255
18前高野淡路4141106.994
19新五郎1313963.996
20源左衛門1513556.341115
21但馬16122205.7331215
22りう蔵10120205.717
23新左衛門11118255.1471320
24縫殿助15118253.425125
25関俣喜八郎6114253.133
26新六郎897155.647
27助五郎1497105.774
28源二郎696203.793
29氏家民部少将496151.93
30彦三郎890254.542410
31新右衛門128854.821115
32関俣和泉守787203.013
33弥六郎98454.839
34新兵衛983203.901
35掃部助77953.665
36藤右衛門1179202.5011110
37蓮花院779154.13
38左衛門二郎678203.0041210
39新三郎877153.694115
40与五右衛門875103.61410
41関俣越後守473251.443
42将監573104.543135
43右衛門五郎1371202.5632410
44彦右衛門8704.7691225
45八郎左衛門8671.96912
46勘解由666253.9511225
47惣右衛門8631.7811210
48甚右衛門957251.943
49与二郎448201.703
50関俣喜八44751.244
51助兵衛346250.917
52喜八44953.715
53外記2453.375
54関俣太郎左衛門1410.82
55総三郎736201.907
56関俣道永336150.73
57新蔵坊135253.225
58清七郎335252.587
59氏家監物131201.582
60与三730201.434
61藤五郎53080.806
62道順226100.47
63総三郎226100.263
64助六325201.771
65衛門四郎6251.0992415
66氏家藤兵衛12351.737
67関俣弥七郎322100.399
68八郎右衛門121101.92
69新四郎420200.778
70左衛門四郎420200.541
71関俣小世120150.41
72関俣玄右衛門充220100.333
73与五郎219200.942
74関俣源四郎11850.363
75右衛門三郎116251.515
76成光121455.5181125
77関俣彦二郎213100.267
78孫六郎3130.542101
79久清112250.115
80孫右衛門112150.563
81新二郎2121.078
82関俣与七郎210200.26
83甚内29100.28
84式部49100.228
85関俣藤四郎39100.186
86関俣道せん18250.177
87関俣総左衛門1850.163
88かんせん坊1750.065
89袮宜大夫16150.2931615
90清七25200.1551120
91源六150.1
92関俣又六14100.13
93弥五郎3450.219
94関俣助二郎13250.028
95志ほし230.027
96関俣寅多12250.028
97関俣花蔵坊12200.053
98辻坊32200.026
99左衛門五郎11100.013
100上光110.04511
101辰坊10150.005

 
3表 文禄4年大谷村検地帳 分付主一覧
分付主名作人名筆数畝 歩
糟屋善七郎分
(糟谷善七郎分)
(糟屋膳七郎分)
(糟屋分)
(善七郎分)
神助270.20
新五郎245.05
源衛門136.20
新蔵坊135.25
彦三郎133.20
清五郎130.20
勘解由122.20
久清112.25
但馬110.20
四郎衛門110.00
りう蔵18.10
太郎衛門18.00
縫殿助17.10
衛門四郎15.05
甚助12.10
源二郎12.10
小計18342.10
四郎衛門249.20
石見守123.15
若色助八郎分新五郎219.05
(若色分)新六郎117.20
弥左衛門111.00
新四郎15.05
小計8126.05


3図 検地の図(安藤 博編『徳川幕府県治要略』より)