4図 寺渡戸村の文禄検地帳(寺渡戸 山本雅勇家文書)
寺渡戸の山本雅勇家に「文禄四年未ノ九月四日 下野国氏家郡宇都宮領寺渡戸村御縄水帳(写)」(史料編Ⅱ・一九一頁)がある。巻末に「地引案内、丹波、四郎左衛門、新右衛門」と三名の名前がある。
なお、奥書に役人名が「三宅吉兵衛・内藤六左衛門・鈴木長十郎・三宅勘七郎」と四名ある。同じ年の大谷村検地帳とは全く違う。後の「元和六年(一六二〇)申三月朔日 下野国氏家郡宇都宮領寺渡戸村御縄打水帳」(史料編Ⅱ一九三頁)の役人名「三宅吉右衛門・鈴木長九郎・三宅長八郎・内藤六兵衛・三宅勘七郎」の三宅勘七郎が同姓名である。文禄四年ではなく、元和六年のものを写したものとも考えられる。今後の課題としたい。
高
下畑一反五畝歩 六斗 丹波
田 高 丹波分
下畑五畝歩 四斗二升九合 新右衛門
田 高 丹波分
下畑四畝歩 三斗四升 同 人
田 高 丹波分
下畑三反七畝歩 三石六升 同 人
この検地帳には、全部で四十八筆ある。その内、二十筆が丹波で二町三反九畝一五歩である。残り二十八筆は全て「丹波分」の分付のある土地である。四十八筆に記載されている九人の土地面積は、4表「寺渡戸村 文禄四年検地帳 土地面積一覧」のとおりである。合計面積が五町六反一畝二十九歩である。
奥書には寺渡戸村の「田畑屋敷都合十町三畝二十歩」とあるから、この検地帳には、寺渡戸村の耕地面積・屋敷地の五十六パーセントと石高の七十パーセントが記載されている。丹波の土地の分を抜き出して集めた名寄帳と思われる。
また、二筆目の丹波分新右衛門の「下畑五畝歩」の右に「田」とある。検地後に耕地の種別変更が行われたと思われる。石盛も下畑でなく、下田として修正され算出されている。このような修正が全部で十一筆ある。これは畑を田に変えた「畑田成」を示している。最後の二筆は(史料編Ⅱ・一九二頁)屋敷の右に「田」とある。一反七畝、一石四斗四升五合は一反に付き八斗五升だから下田であるが、一畝十歩、九升三合一勺は一反に付き七斗だから屋敷・下畑である。誤記であろう。
寺渡戸村の石盛を大谷村や下小倉村と比べる。1表「石盛一覧」を見ると、寺渡戸村は高い。
明暦二年(一六五六)の検地帳(史料編Ⅱ・一九八頁)では、上田のみが一反当たり一石三斗から一石二斗に引き下げられている。その他は変わらなかった。寺渡戸村は高根沢で最も石盛りの高い村の一つであった。
宝積寺村も、寛文三年の検地帳(宝積寺 加藤俊一家文書)であるが、上田が一反当たり一石三斗であった。栗ケ島村は、元禄十三年の本田高帳(栗ケ島 横須賀重武家文書)で上田が一反当たり一石二斗と高かった。平地の宝積寺村や寺渡戸村、栗ケ島村の石盛が高い。これらの村々は、高根沢の中で、豊かな土地であったと思われる。
4表 寺渡戸村文禄4年土地面積一覧
分付主 | 作人 | 筆数 | 畝 歩 | 石高 | 分付主なし・他 |
石.斗升合勺 | |||||
主作 | 丹波 | 20 | 239-15 | 11.2053 | 屋敷2 1反8畝10歩 |
丹波 | 甚四郎 | 5 | 62-10 | 6.4254 | 1反8畝 |
四郎左衛門 | 5 | 56 | 6.167 | ||
新右衛門 | 6 | 68 | 4.159 | ||
新左衛門 | 5 | 62 | 3.4 | ||
源兵衛 | 3 | 43-10 | 3.3583 | ||
源十郎 | 2 | 24 | 2.5883 | ||
又兵衛 | 1 | 2-14 | 1.54 | ||
新五郎 | 1 | 4-10 | 0.3684 | ||
計 | 28 | 322-14 | 28.0064 |