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元和六年宝積寺村と寺渡戸村の検地

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5図 多くの文書を所蔵している加藤俊一家の長屋門(宝積寺)

 本多正純の行った元和六年(一六二〇)の総検地の検地帳は、宝積寺村・西高谷村・平田村・寺渡戸村の四村に現存している。ここでは、宝積寺村の「元和六年申正月十一日十二日 下野国氏家郡宇都宮領法積寺村御縄打水帳」(史料編Ⅱ・一五三頁)を見ていく。案内者は勘十郎・助十郎・五郎右衛門・縫之助・惣兵衛・弥八郎の六人である。
 
  十五間    前はた       勘十郎分
  十三間半  上畑六畝二十二歩      主 作
  十二間    同所        同  分
  四間二尺  下畑一畝二十二歩      主 作
  十三間半   同所        源六郎分
  十間    中畑四畝十五歩       主 作
  十一間    前畑        弥八郎分
  七間    中畑二畝十七歩       主 作
 
 検地帳の上段には耕地の縦・横の長さ、次に耕地の所在地、等級、面積の表示がある。それから「誰分 主作」の形式となり、土地の保有権者が「主作」者として耕作者となっている。石高の分米表示はない。
 宝積寺村の田は四十三町二反六畝余、畑は五十六町三反五畝余、屋敷地は二町三反三畝余である。村全体で百一町九反五畝余である。宝積寺村は鬼怒川の東側に位置し、鬼怒川の沖積地である。天保二年の宝積寺村絵図(宝積寺 加藤俊一家文書)を見ると、鬼怒川と宝積寺丘陵の間に田が多くあるが、宝積寺丘陵や鬼怒川の中州は畑となっている。今と違い、江戸時代は水を引くことが困難であったことが読みとれる。
 土地面積の最大は彦左衛門の八十筆、六町三反八畝九歩である。最少は二郎右衛門の一筆、一畝十歩である。六十四名の名前がある。一人当たり約一町五反九畝となる。大谷村の文禄四年検地帳は、一人当たり約八反七畝であるから、宝積寺村の方が、一・八倍と多い。
 案内者の六人の土地面積は次のようになる。縫之助は二位で六十四筆、五町四反九畝、助十郎は三位で四十四筆、五町一反二畝、五郎右衛門は六位で六十一筆、三町四反三畝、惣兵衛は七位で四十一筆、三町三反二畝、勘十郎は十七位で三十三筆、二町一反七畝、弥八郎は二十一位で二十一筆、一町七反四畝である。案内者の六人とも村の農民の平均面積よりも多くの土地を持つ、村内でも有力な農民であった。
 分付は例外的な十一筆のみであった。九十郎分五郎右衛門が一筆、八畝十五歩、彦左衛門分源左衛門が四筆、一反四畝十三歩、藤蔵分道満が一筆、二畝八歩、弥八分弥六郎が二筆、一反三畝二十七歩、弥八分たつみが三筆、九畝二十三歩である。計四人の分付主が、四反八畝二十六歩分を持っていた。宝積寺村の土地全体の〇・五パーセントと大谷村と比べて大変少ない。
 同じことが寺渡戸村でもいえる。「元和六年申三月朔日下野国氏家郡宇都宮領寺渡戸村御縄打水帳」(史料編Ⅱ・一九三頁)も「誰分 主作」の形式である。
 田が八町一反五畝十七歩、畑が三町三畝十八歩、屋敷地が一反五畝二十五歩の合計十一町三反五畝歩である。田が約七十二パーセントと田の多い村であった。
 文禄四年検地帳は丹波分しか記載されていなかったが、元和六年検地帳では分付は見られない。これらは、幕府の中枢にいた本多正純が推進した小農自立策の結果を反映したものと見られる。