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寛文三年宝積寺村の検地

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7図 現在は水田が中心になった宝積寺の農村風景

 奥平氏は元和八年(一六二二)の入部以来承応・明暦・万治と検地を実施してきた。寛文八年(一六六八)に奥平氏は出羽国山形に転封になり、代わりに山形より松平忠弘が十五万石として宇都宮城主となったから、寛文期の検地は奥平氏にとって最後の検地となる。
 宝積寺村の寛文三年(一六六三)検地帳「寛文三年癸卯十一月二十一日 下野国塩谷郡宇都宮領宝積寺村田畑御縄帳」(宝積寺 加藤俊一家文書)は、田の部一冊と畑の部二冊の三冊ある。宝積寺村では新畑の開発が盛んに行われたので、検地帳も畑の部が二冊となった。
 案内者は、庄屋長右衛門と喜四郎・理右衛門・久左衛門・次左衛門・庄右衛門・弥次衛門・彦左衛門の八名である。記載形式は明暦検地帳と同じである。
 
  前田
   二十間四尺
           上田  一反四畝十五歩   彦左衛門
   三十一間一尺
  くまの手
   四十六間半
           上田  一反七畝三歩    同  人
   十一間
 
 田が四十三町五反三畝十八歩・四百五十四石六斗四升二合、畑屋敷が百三十八町三反二十四歩・二百八十八石七斗二升六合、合計は百八十一町八反四畝十二歩・七百四十三石三斗六合八升となる。宝積寺村は鬼怒川の沖積地と河岸段丘に位置し、村における田の面積割合は約二十四パーセントと関東地方特有の「畑勝ち」の土地であった。
 耕地・屋敷地面積の最大は次左衛門の九町六反歩である。八十三人の名請人で、一人当たり約二町一反九畝となる。元和六年検地帳では村の耕地・屋敷地が百一町九反五畝歩であったから約一・八倍になった。内訳は田は同じで、畑が約二・四倍、屋敷地が約一・九倍となった。天保期の絵地図を見ると畑が鬼怒川の対岸にあったり、宝積寺丘陵の高台に多く見られたりする。元和六年の一人当たり面積は約一町五反九畝であったから約一・四倍と増えており、検地帳記載農民も六十四名から八十三名と増えている。小農の増加が見られる。
 奥平宇都宮藩は、新田畑の増加分を確実に検地で掌握しようとしたことが分かる。