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文禄四年の大谷村

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7表 大谷村文禄4年 土地面積・石高別人数    左数字は屋敷持ち-右数字は屋敷地なし
50石以上20石以上10石以上5石以上3石以上1石以上5斗以上1斗以上1斗未満
10町未満
5町以上
1-01-0
3町以上4-0
2町以上5-0
1町5反以上4-2
1町以上2-31-1
7反以上0-28-42-0
5反以上1-02-1
3反以上0-30-40-2
2反以上1-20-20-2
1反以上1-01-20-1
5畝以上2-3
1畝以上0-21-3
1畝未満0-1


8図 大谷村の屋敷持ち(史料編Ⅱ・148頁)

 
8表 甚助の持ち分
筆数畝 歩石斗升合
中田2 43-153. 2 6 3
下田4 82-54. 1 0 5
中畑2 45-51. 3 5 5
下畑2 8-100. 1 6 6
合計10 179-58. 8 8 9

 大谷村の文禄四年(一五九五)の検地帳(史料編Ⅱ・一三一頁)には、百一名の名前が記録されている。二十二名の「氏家」等と注記されている他村からの入作者を除くと、大谷村には七十九名の農民がいた。屋敷地持ちが三十七名、屋敷地なしが四十二名である。屋敷地持ちの三十七名が年貢の他に諸役を負担する本百姓である。
 2表「大谷村文禄四年検地帳土地面積一覧表」(五四三頁)から、7表「大谷村文禄四年土地面積・石高別人数」を作成した。屋敷持ち農民三十七名の平均は一町六反四畝、七石九斗三升六合と面積も石高も多い。最高は石見守の八町七反三畝、五十石二斗七升三合である。
 屋敷地なし農民四十二名の平均は五反、二石三斗二升一合である。屋敷地なし農民の最高は甚助である。
 彼は一町七反九畝、八石八斗八升九合も所持している。甚助の持ち分は、8表「甚助の持ち分」の通りで、中田や下田が多い。上田や上畑はないが、自立するには十分な耕地面積であったと考えられる。彼の名義の屋敷地はないので、家族や親族の屋敷に住んでいたと推測する。
 検地帳の屋敷の記載に、次のような農民名の並記が見られる(史料編Ⅱ・一五〇頁)。
 
                東大谷大坪村
  居屋敷 壱反四畝  六斗三升  太郎右衛門
                     助九郎
                     弥左衛門
                     助五郎
                     外記
                     平衛門
 
 太郎右衛門の一反四畝の屋敷地に、助九郎・弥左衛門・助五郎・外記・平衛門の隷属的関係を思わせる百姓の五名の名がある。2表「大谷村文禄四年検地帳土地面積一覧表」(五四三頁)を見ると、助九郎は、二畝二十歩の空屋敷と二町六反三畝の耕地を持つ。同じく、弥左衛門は二畝の空屋敷と一町五反五畝の耕地を持つ。彼ら二名は太郎右衛門から自立しつつあったと思われる。屋敷地なしの助五郎・外記・平右衛門の三人もそれぞれ、九反七畝、四反五畝、一町六反九畝の耕地を持っていた。自立するに十分な土地の広さであったと考える。
 また、次のような並記も見られる(史料編Ⅱ・一四九頁)。
 
  居屋敷 四畝拾歩  壱斗九升五合 与五衛門
                     源左衛門
 
 源左衛門も一畝五歩の屋敷地と一町三反五畝の耕地を持つ。与五衛門の耕地の七反五畝より広い。与五衛門と源左衛門は家族とも考えられる。
 このような屋敷主とその並記百姓の関係がどうであったのかは、この一史料だけでは分からない。しかし、太郎右衛門の名義の屋敷地に名前が並記されていることから、小百姓が自立しつつあったことは推測できる。
 入作者の平均は二反六畝、六斗九升五合である。入作者の大部分は関俣村の農民であった。出作や入作が多く、村切は完全でなかったと思われる。また、太閤検地が目指した直接耕作者を検地帳の名請人とする一地一作人制や、年貢の徴収は村単位で村として納める村請制も完全ではなかった。しかし、太閤検地の小農自立策は、直接生産する農民の自立を促し、近世農村社会の基礎をつくっていった。