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文禄期の大百姓

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13表 大谷村文禄4年検地帳 石見守の土地の等級別持ち分
筆数面積石高
割合%割合%
上田615561813.96528
中田62532917.99736
下田247952.3665
下々田2182120.1860
1647465434.51469
上畑12302153513.61427
中畑32120.631
下畑229930.5871
下々畑2382450.3881
屋敷地11210.541
畑・屋敷20403184615.75931
合計368772410050.273100

 ここでは、村の指導的な名主・庄屋や組頭などを勤める本百姓の中の、有力な農民を中心に見ていく。
 寛延二年(一七四九)の宝積寺村差出帳(史料編Ⅱ・五四頁)を見ると、
 
  一 百姓家数 百四拾六軒
      内
     五拾弐軒  本百姓
     三拾三軒  合地
     拾軒    水呑
     拾壱軒   前地
     三拾八軒  隠居
     寺弐ヶ寺
 
とある。村の担い手である本百姓は、宝積寺村の家数の三十六パーセント、五十二家と最も多い。本百姓の創設については、前項「一、小農の自立」で見てきた。
 豊臣秀吉は刀狩と検地によって兵農分離を押し進めた。農民から武器を奪い農業に専念させ、彼らを年貢や労役の負担者としようとした。
 大谷村の文禄四年(一五九五)検地帳(史料編Ⅱ・一三一頁)の百姓百一名の中に、石見守・帯刀・淡路・但馬・縫殿助・(氏家)民部少将・(関俣)和泉守・掃部助・(関俣)越後守・将監・勘解由・外記・(氏家)監物の名がある。石見守など十三名は農民らしくない名である。彼らは武士から農民として、村に土着したと推測する。
 所持面積の一位は石見守である。彼は八町七反七畝の土地を持っている。彼の持ち分は13表の通りで、持高五十石の中、上田二十八パーセント、中田三十六パーセント、上畑二十七パーセントと、石見守の耕地の大部分が上田・中田・上畑である。
 所持面積の二位は太郎右衛門である。彼の持ち分は、中田が一町三反二畝で、面積では二十五パーセントである。持ち高二十石七斗八合に中田が占める割合は九石九斗二升五合で、四十八パーセントと持ち高の半分が中田である。太郎右衛門の耕地も等級の高い耕地の割合が多い。
 これに反して、前項「小農の自立」の10表「明暦二年 大谷村耕地の割合と藤兵衛・清左衛門の持ち分の割合」(五六五頁)の屋敷持ち農民の藤兵衛と清左衛門は、下々田や下畑が大部分であった。持ち高の低い農民に対して、上層農民が等級の高い土地を所持していたと考えられる。
 大谷村文禄四年検地帳の表紙に「地引案内 堀内右衛門」とある。地引案内とは、検地の時、領主の役人に村内を案内し、耕地の耕作者名などを教えたりする者をいう。地引案内人には、村の有力者がなったといわれている。
 四十二年後の寛永十四年(一六三七)に、下高根沢村上鷺谷の主水に出された除地免状(史料編Ⅱ・二二一頁)に「一 屋敷境の堀外十二間通し地所、右は、地引案内の功により、除地とする」とある。主水は、検地の時に案内をした。その代償として、主水の屋敷地と回りの土地の年貢を免除すると言うのである。主水は村の最有力者であった。
 文禄四年検地帳の百一名の中に、地引案内人の堀内右衛門の名が見あたらない。現在の大谷の小字三十三の中に、堀内はない。文禄検地帳の農民の地域名で多く出てくる堀口も現在の大谷の小字にない。明治時代の初期に地租改正が行われた。その時に作られた地図(大谷 阿久津幽樹家文書)にも、堀口と堀内の小字はない。
 しかし、大谷の人によれば、堀内家は大谷村で最も古い家の一つであったという。慶安二年(一六四九)の年号がある高龗神社の「宮座証文」(大谷 石塚毅男家文書)に、「堀内天神 一 堀内大膳 男子七郎左衛門、二男助右衛門、三男源右衛門」とある。堀内家には、七郎左衛門・助右衛門・源右衛門の三人の子がいた。また、大谷西共同墓地に堀内家の墓地がある。その一角に天神社があり、戦後もしばらく天神祭をしていたという。その共同墓地に、明治八年(一八七五)の「霊祭碑」がある。九家で墓地を整理して記念に碑を建てたとある。九名の中に「堀内勝次郎」とある。第二次世界大戦後、子孫は上河内町に移住した。
 大谷村の明暦二年(一六五六)検地帳の五十六名の名前の中に、武士的な名は見あたらない。縮都・伊勢と言う宗教者的な名前はある。宇都宮国綱十八万石が、慶長二年(一五九七)秀吉によって突然改易に処せられた。国綱の後に、豊臣の大名蒲生秀行が会津から来た。領主の交替によって、村内の支配関係に変化が起き、武士の帰農や土着を促し、農民らしい名前が多くなったと思われる。

9図 西大谷の共同墓地の霊祭碑